第15話 ロアン・ドルスは首席ではありません
ロアン・ドルスは生まれて初めて、手紙の書き出しで三日悩んでいた。
宿の机の上に便箋が一枚。その横に薔薇色の小口の本が一冊。表紙はもう偽装していない。作者本人に見破られた以上、偽装する意味がなくなったからだ。
その作者である王女殿下にこの巻、つまり最新の第七巻の感想を送らなければならない。それも、いちばん厳しいのを、という注文つきだ。
『拝啓 第三章の騎士の台詞について、そういう意味では』
そこまで書いて、便箋を丸めた。床には丸めた便箋がもう十四個転がっている。
扉が二回鳴った。固い、遠慮のない叩き方だった。
開けると、灰色の外套を着た女が立っていた。四十すぎくらいで、髪をきっちりとまとめ、細い銀縁の眼鏡をかけている。脇に抱えた分厚い革表紙の本には、『王立魔術学院 規則集』とあった。
ロアンは扉を閉めようとした。女の靴の先が隙間に差しこまれるほうが、早かった。
「お久しぶりですね、ドルス君。学院監察官のノーマ・ヴィスです」
「……人違いです。お帰りください」
「規則です。開けなさい」
学院を出てから、一度も聞いていなかった声だった。エルツの分院にいたころ、下宿を夜中に抜け出して酒場へ行くたびに、通りの角で待ち構えていた声だ。
ノーマは部屋に入るなり、新聞を一枚、机の上に置いた。
『賢者ロアン、最短経路を看破 王立魔術学院を首席で卒業した知略』
「学院の記録ではあなたの卒業順位は三位です」
「誤植だろ」
「陛下の謁見でも、首席と名乗ったそうですね」
「陛下が誤植したんだろ」
ノーマは取り合わずに、規則集を開いた。
「学院規則第四十二条。学院の名を用いて経歴を偽った者は、魔術師の資格を停止する。前線への魔術師登録も、同時に抹消されます」
指が次の行に移った。
「ただし、同条第二項。本人が希望する場合、再試験を受けることができる。合格すれば、処分は取り消し。再試験は今日の午後です」
話はすぐに三人に伝わった。
食堂の隅ではマルタがノーマから借りた規則集を、一ページ目から全部読んでいた。ロアンが資格を停止されれば、魔術を使う仕事は違法になる。違法な仕事は報酬が安い。
セレナはノーマの向かいの席に座って紅茶を勧めていた。
「ノーマさんは学院でロアンさんの監督をなさっていたんですか?」
「ええ。エルツの分院で、五年間。下宿生の見回りを」
「学生時代のロアンさんって、どんな方でした?」
「規則を全部読んでいました」
「勉強熱心だったんですね」
「規則をかいくぐるためにです」
セレナの手帳がすごい速さで埋まっていく。
レオルは宿の窓から外を眺めてつまらなさそうにしていた。
「試験って、誰か見に来んの?」
「来ない」
「じゃあ俺、寝てていい?」
再試験はリュードの町の外れにある学院の分院で行われた。石造りの古い建物で、中庭には試験用の的が並んでいる。エルツの分院にあったのと、同じ形の的だった。
ところが中庭のまわりには分院の学生たちがぎっしり集まっていた。噂の「首席の賢者」が再試験を受けるのだから、見に来ないはずがない。
レオルが急に目を覚ました。
「ロアン! 頑張れよ! 俺がついてるからな!」
学生たちによく聞こえる大声だった。
最初は筆記試験だった。問題は十問。どれも、術式の図を見て欠陥を指摘するものだ。
ロアンは九問をさっさと解いた。最後の一問で、手が止まった。図の術式に欠陥が見当たらないのだ。
よく見ると、問題用紙に印刷された図そのものが、元の図から写し間違えられていた。線が一本足りない。線が欠けたせいで、どこにも欠陥のない術式になってしまっている。
ロアンは答案用紙に書いた。
『問題の図に誤植あり。第三環の外周線が欠落。よって本問は成立しない』
それから、マルタが書き写しておいてくれた規則集の一節を、横目で確かめた。
『試験問題に誤りがあった場合、その問題は受験者全員を正解とする』
これで、十問中十問、正解だ。
実技試験の課題は一つだけだった。
「この的を破壊しなさい」
ノーマが指さしたのは中庭の真ん中に立つ、人の背丈ほどの石の的だった。表面に細かい文字がびっしり刻まれている。
防御の術式だ。学院の伝統で、外から加えられたあらゆる攻撃に耐えるように作られている。火も、雷も、氷も、はじき返す。
学生のころ、ロアンはこの的を一度も壊せなかった。だから三位だった。一位と二位は正面から力ずくで壊した。
ロアンは時間をかけて、的のまわりを一周した。術式の文字を一行ずつ読んでいく。
『この的は、外部より加えられる、あらゆる攻撃に耐える』
外部より、と書いてある。
ロアンは的の根元にしゃがみこんだ。地面との継ぎ目に髪の毛ほどの隙間がある。雨水を逃がすための細い溝だ。その溝に指先を当てて、火花を一つだけ落とした。火花は溝を伝って、的の内側へ入っていった。
一呼吸おいて、的の中から低い音がした。
石の的に上から下までまっすぐな亀裂が走った。的は真っ二つに割れて、左右に倒れた。
中庭が静まり返った。
ノーマが眼鏡を押し上げた。
「……内側から」
「この的の術式は外部からの攻撃に耐える。内側は定義されてない」
ロアンは煙草をくわえて、指先の火をつけた。
「攻撃じゃない。中で、火をつけただけだ」
学生たちが、どっと沸いた。
「すげえ!」
「さすが首席だ!」
レオルが学生たちの前に飛び出して両手を上げていた。
「だろ!? 俺の仲間、すごいだろ!?」
夕方、ノーマは合格の証書をロアンの手に渡した。
「正攻法ではありません。しかし、規則上は合格です。規則上は」
「どうも」
「処分は取り消します。ただし、今後、首席と名乗ることは禁じます」
「名乗ってない。新聞が書いた」
「謁見の間で、陛下に向かって名乗ったでしょう」
ロアンはそっぽを向いた。
ノーマは外套の襟を直して、分院の門のほうへ歩き出した。途中で、一度だけ振り返る。
「ドルス君」
「なんだよ」
「あなたは首席ではありません」
「ほぼ首席だろ」
「三位です」
「誤差だな」
ノーマは何も言わずに歩いていった。門をくぐる直前、その肩が一度だけ揺れたのを、ロアンは見た。
その夜、宿の食堂で、マルタが帳簿を開いた。
「規則集を全部読んだ手間賃。銀貨二枚。お前の借りにつける」
「誤植の条項、見つけたのは俺だ」
「条項を見つけたのは私だ。誤植を見つけたのがお前だ」
セレナは紅茶を飲みながら、手帳を眺めてうっとりしていた。
「ノーマさんから、いろいろ伺いました。ロアンさん、卒業試験の日に寝坊なさったんですって? 実技の時間に間に合わなくて、一位と二位の方の半分の時間で受けたとか」
「……言ってない、それ」
「ノーマさんがおっしゃいました」
ロアンは何も言わずに立ち上がった。部屋に戻って、もう一度便箋を広げる。今度は書き出しで悩まなかった。
『拝啓 第六章、雨の場面の騎士の台詞について。「必ず迎えに来る」は、重すぎる。俺なら言わない。言えば、守らなきゃならなくなる。騎士は、黙って迎えに行けばいい。 以上』
読み返して、封をした。
いちばん厳しい感想になったかどうかは、自信がない。ただ、本当のことを書いたのは久しぶりだった。




