第12話 王女様は自分から来ました
ロアン・ドルスは岩の陰から窪地の真ん中を見ていた。
竜の首の付け根に王女が座っている。膝の上に本を置き、手には紅茶の杯。どう見ても、さらわれた人の座り方ではない。
竜が地響きのような声を出した。
「リディア。これが、お前の言っていた勇者か」
「ええ、ザラン。そのはずです」
「だいぶ騒がしいのだな」
「新聞ではもっと立派そうに書いてあったんですけど」
レオルは剣を構えたまま固まっていた。岩棚の観客に見せるつもりで振り上げた剣を、どこへ下ろせばいいのか分からない顔をしている。
「えっと……王女様? さらわれたんじゃないの?」
「さらわれていません。私がザランに頼んで、連れてきてもらったんです」
王女は紅茶を一口飲んだ。
「家出です」
そのとき、窪地の縁のほうからざわめきが聞こえてきた。岩棚で待っているはずの観客たちが、我慢できなくなって、山頂のすぐ下まで上がってきたらしい。
「勇者様、まだかー!」
「竜倒したかー!」
竜のザランが面倒くさそうに首を持ち上げた。
「うるさい」
鼻の穴から、黒い煙がぼわりと吐き出された。煙は風に乗って岩棚まで流れていき、悲鳴が上がる。ばらばらの足音が山の下へ遠ざかっていった。
レオルは煙の流れていったほうを呆然と見ていた。
「……観客、逃げたんだけど」
「そうだ。静かになった」
竜は満足そうに目を閉じた。
王女の話はこういうことだった。
八つの年、王家の狩りの最中に王女は迷子になった。森の奥で泣いていたところを、たまたま昼寝をしていた古竜のザランに見つかった。ザランは王女を山のふもとまで運んで、帰した。それ以来、王女はこっそり手紙を書き、ザランは鳥に返事を運ばせてきた。十年間、ずっとだ。
「ザランはお話が好きなんです。私が書いたお話を送ると、いつも感想をくれるの」
「感想というより、文句だ。お前の話は騎士が泣きすぎる」
「泣かせたいんです」
竜と王女が言い合うのをロアンは岩の陰で聞いていた。
来月の婚約式のことになると、王女の声が低くなった。
「相手のノルデンの王子様には、一度しか会ったことがありません。話したのは天気のことだけ。母上は前線が止まっている今のうちに、北の同盟を固めたいとおっしゃいます。それは分かるんです。分かるけど……」
王女は膝の上の本を閉じた。
「せめて、自分で選んだと思えるまで、少し時間が欲しかったんです」
「それで、竜に乗って家出」
「父上はきっと分かってくださいます。母上と違って」
「まあ。それで、謁見の間で、お二人のあいだがあんなに空いていらしたんですね」
セレナが口を挟んだ。
「見ていらしたんですか?」
「はい。ずっと気になっていたんです。ようやくすっきりしました」
王女は目を丸くしてから、吹き出した。
「父上と母上が口をきかなくなったのは、この縁談の話が出てからです。父上は私に選ばせたいと言ってくださった。母上は王族に選ぶ自由などないとおっしゃった。どちらも、私のためを思ってのことなんです」
王女は本の表紙を指でなぞった。
「生まれてから、自分で選んだものが一つもないんです。着る服も、習う楽器も、会う人も。自分で選んだのはお話を書くことと、ザランと友達でいることだけ」
セレナが目を輝かせて身を乗り出した。
「王子様のほうはこの縁談、どう思っていらっしゃるんでしょう?」
「さあ。お手紙ではずっと天気のことしか」
「天気のことしか書かない殿方は、たいていほかに書きたいことがあるんです」
セレナは手帳を開いて、新しいページに『ノルデン王子』と書いた。
四人は窪地の隅に集まった。竜に聞こえないように、小声で話す。
「で、どうすんの、これ」
レオルはまだ剣を持ったままだった。
「竜を倒す話じゃなくなっちゃったんだけど。観客、山の下で待ってるんだけど」
「整理する」
マルタが地面に指で線を引いた。
「陛下は王女に無事に帰ってきてほしい。王妃は婚約式をやりたい。王女は婚約を延ばしたい。竜は静かに暮らしたい。私たちは絶対に金貨千枚が欲しい」
「俺は竜退治の英雄になりたい」
「お前のは後で考える」
「後回しかよ!?」
「全員が欲しいものを少しずつ取れる形にする。そのうえで、全員から手数料を取る」
「竜からも?」
「竜がいちばん持っている」
マルタは窪地の真ん中の金貨の山を顎で示した。セレナがにっこりと笑う。
「王子様のほうは私が調べます。きっと何かありますから」
「ロアン、お前は」
三人がこちらを向いた。
ロアンは正直なところ、早く山を下りたかった。竜の鼻息は熱いし、窪地は硫黄臭い。それに、荷物のいちばん下に入れてある本が、ちょうどいいところで止まっている。
「竜と王女の話はそっちでやれ。俺は下で待って――」
言いながら荷物を背負い直したとき、傾いた袋の口が開いた。分厚い本が一冊、地面に滑り落ちる。金の字で、『魔術構造論 第三版』。
拾おうと手を伸ばすより先に、白い指がそれを拾い上げた。王女だった。いつの間にか、竜の背から降りてきていた。
王女は本を裏返した。ページの小口が淡い薔薇色に染まっている。
ロアンはくわえていた煙草を落としかけた。あの色は王都の白薔薇書房の本にしか使われていない。そこから本を出している作家は、一人しかいない。
「……魔術構造論の第三版は、小口を染めていなかったと思いますけど」
「新しい刷りだ」
「この栞も?」
王女はページのあいだから、押し花の栞をつまみ出した。白い薔薇の花びらだ。新刊を買うと、一枚ついてくるものだった。
「拾った」
「表紙、剥がして貼り替えてありますね。糊の跡が」
「……魔術の構造の本だ」
「騎士が雨の夜に薔薇を拾う魔術ですか?」
レオルが首をかしげた。
「え、なに? ロアン、その本、何?」
「何でもない」
「まあ」
セレナの目が今日いちばん輝いていた。手帳がもう開いている。
王女は本をロアンの胸に押し当てた。それから、竜には聞こえないくらいの小声で言った。
「これ、私が書きました」
ロアンは本を受け取ったまま、動けなくなった。
白薔薇。新刊が出るたびに、王都の娘たちが貸本屋に列を作る作家。毎晩、表紙を偽装してまで続きを読んできた作家。その本人が目の前で笑っている。
「どこまで読みました?」
「……読んでない」
「第六章の雨の場面の騎士の台詞、言えますか?」
言える。全部言える。三回読んだ。
ロアンは黙っていた。王女はそれで十分だという顔をした。
「誰にも言いません。そのかわり」
くるりと背を向けて、竜のほうへ歩きながら、王女は肩越しに振り返った。
「この巻の感想をぜひ。いちばん厳しいのをお願いしますね」
自分の顔から血の気が引いていく音を、ロアンは聞いた気がした。
マルタが地面に引いた線の横に一本書き足していた。
「ロアンの弱み。値段がつかない」




