第11話 姫をさらったドラゴン
その朝、王城じゅうの鐘が鳴った。
イネス・カルディアが広報局の机で麦茶をすすっていると、ベルトが息を切らして飛び込んできた。眼鏡がずれている。ベルトが走るところをイネスは初めて見た。
「王女殿下がいなくなった」
「……え?」
「夜明け前だ。夜番の衛兵が見た。東の塔の上を竜が飛んでいったそうだ。背中に殿下を乗せて」
イネスは杯を置いた。
王女リディア殿下は今年十八になる国王陛下のひとり娘だ。来月には北の同盟国ノルデンの王子との婚約式が予定されていた。
「まあ、そういうことだ」
「どういうことですか!」
局長に連れられて東の塔の最上階へ上がると、王女の部屋は近衛の騎士と侍女でいっぱいだった。窓が大きく開け放たれ、カーテンが風に揺れている。
荒らされた部屋を想像していたのに、中は思ったより片づいていた。寝台はきちんと整えられていて、衣装箱の中身もほとんど減っていない。ただ、壁一面の本棚にところどころ隙間が空いていた。
イネスは本棚に近づいて、背表紙を眺めた。歴史書や詩集に混じって、王都の貸本屋でよく見かける恋愛小説が驚くほどたくさん並んでいる。何冊かは同じ作者のもので、筆名は白薔薇。新刊が出るたびに、王都の娘たちが貸本屋に列を作る作家だ。
王女殿下も、こういうものを読むのか。会ったこともない殿下に親しみが湧いた。
机の上にはインク壺と羽根ペンがあった。紙の束を紐で縛って置いていたらしい跡だけが、残っている。
部屋の隅で、ミアがエプロンの端を握って立っていた。
「ミア。あなた、殿下のお部屋の係だったの?」
「先月から、掛け持ちで……。殿下、このごろ毎晩、遅くまで何か書いていらっしゃいました。私が火を落としに来ると、慌てて紙を隠されて」
「何を書いていたの」
「分かりません。でも、楽しそうでした」
廊下の向こうから、王妃の声が聞こえてきた。
「婚約式は予定どおり行います。娘を必ず連れ戻すのです」
続いて、国王の弱々しい声がした。
「しかしあの子はもともとこの縁談を」
「陛下」
それきり、国王は口ごもった。
局長がイネスの耳元に口を寄せた。
「イネス君。発表ではさらわれたとは書くな。民が怯える。『殿下は、ご療養のため、しばらく東へ』だ」
「……東の、どこへ」
「東の、どこかへだ」
その日の昼、早馬が東へ発った。国王の命令書と一緒にイネスも手紙を一通書いて持たせた。
◇ ◇ ◇
早馬が四人に追いついたのは、二日後だった。東街道が東の山のふもとにさしかかる、小さな宿場だ。王都からは歩けば九日かかる。
レオル・ヴァニスは命令書を読み終えた瞬間、椅子から立ち上がった。
「王女様がドラゴンにさらわれた……!」
声が震えた。
これ以上の舞台がこの世にあるだろうか。さらわれた姫。山の上の竜。助けに行く勇者。子供のころに読んだ絵本と、まったく同じだ。新聞の一面どころではない。歴史に残る。王都の大通りに銅像が建つ。
「報酬は」
マルタが命令書の裏をめくった。
「救出の暁には金貨千枚。……千枚」
マルタの声が一段低くなった。本気のときの声だ。
セレナは頬に手を当てて、目を輝かせている。
「まあ。婚約式の前に竜が王女様を? お相手の王子様とはどんなご関係だったんでしょう。それに王妃様と陛下、謁見のときも、ずいぶん距離が空いていらっしゃいましたよね。これは気になります」
「帰る」
ロアンだけが、荷物をまとめはじめていた。
「竜は無理。たぶん死ぬ。俺の担当じゃない」
「お前の担当どこにあんだよ」
「宿のベッドの上」
マルタがロアンの襟首をつかんだ。
「金貨千枚を四人で割ると、一人二百五十枚。お前の借りを全部返して、まだ二百枚残る」
ロアンは荷物を床に置いた。
命令書の下にもう一通、封筒が挟まっていた。広報局の封蝋が押してある。開けると、几帳面な字で短く書いてあった。
『勇者様方へ。せめて、王女殿下の前では善人でいてください。 イネス・カルディア』
「信用ねえなあ、俺ら」
レオルは笑って、手紙をマルタに渡した。マルタは黙って、それを帳簿のあいだに挟んだ。
次の朝、山を登りはじめると、後ろからぞろぞろと人がついてきた。
宿場の人たちだった。勇者様が竜を退治しに行くと聞いて、見物に来たのだ。パン屋の夫婦。鍛冶屋の親方。子供が十人以上。弁当を持ってきた家族までいる。
「勇者様ー! がんばってー!」
レオルは振り返って、片手を上げた。最高の朝だった。空は高く、山の空気は澄んでいて、後ろには観客がいる。足が勝手に前へ進んだ。
「危ないから、途中で引き返すように言え」
マルタが言った。
「言うよ。山頂の、一個手前でな」
中腹を越えたあたりで、木が少なくなった。岩肌が増え、ところどころに焦げた跡がある。大きな爪で引っかいたような溝が、いくつもの岩に刻まれていた。観客たちの声がだんだん小さくなっていく。
ロアンが溝の深さを指で測って、顔をしかめた。
「この爪、人の胴より太いぞ。やっぱり帰ろう」
「金貨二百五十枚」
マルタが前を向いたまま言うと、ロアンは黙ってまた歩き出した。
セレナは焦げ跡の一つにしゃがみこんで首をかしげていた。
「変ですね。竜が王女様をさらったのなら、もっと暴れた跡があってもいいと思うんですけど。この焦げ跡、全部、焚き火の跡みたいです」
「竜だって、焚き火くらいするんじゃね?」
「竜は火を吹けますのに?」
言われてみれば妙だった。けれど、レオルはそれ以上考えなかった。焚き火の跡がどうであれ、竜が山頂にいることに変わりはない。
山頂の手前の岩棚で、レオルは観客たちを振り返った。
「ここから先は勇者の仕事だ。みんなはここで見ててくれ」
決まった、と思った。観客たちは岩棚の上に並んで、拍手で送り出してくれた。
山頂は大きくえぐれた窪地になっていた。その真ん中に竜がいた。
大きかった。小さな丘がまるごと、鱗をかぶって寝ているようだ。鱗は古い銅の色で、ところどころが緑青のように青く曇っている。腹の下には金貨と、宝石と、錆びた剣と、壊れた兜が山のように積まれていた。
竜は目を閉じて、深く息をしていた。そのたびに、窪地の空気が熱く揺れる。
「金貨がざっと三万枚。宝石は数えきれない」
隣でマルタがつぶやいた。目は竜を通りこして、その下の財宝の山を見ている。ロアンはいつの間にか大きな岩の陰に入っていた。
レオルは剣を抜いた。手が汗で滑る。正直に言うと、怖い。けれど、岩棚の上では観客が見ている。
「邪悪なる竜よ!」
腹の底から、声を張り上げた。
「王女殿下を返してもらうぞ! 勇者レオル・ヴァニスが相手だ!」
声が山に響いた。竜の瞼が重たそうに持ち上がる。金色の大きな目だった。
そのとき、竜の背中のほうから声がした。
「遅かったですね」
若い女の声だった。
竜の首の付け根、鱗の盛り上がったところに、誰かが腰かけていた。淡い色の旅装を着て、膝の上に本を開き、片手に湯気の立つ杯を持っている。栗色の髪をひとつにまとめた娘だった。
「三日も待ちました。お茶、もう四杯目です」
王女リディアは本から顔を上げて、にっこりと笑った。




