2話 崩れかけたプラネタリウム
ヒナの「異変」に最初に気づいたのは、ソウタだった。
それは、放課後の教室で、ノートに新しい星座を書き込もうと、ヒナがソウタからペンを受け取ろうとした時のことだ。
夏の眩しい西日が差し込む中、半袖から伸びた彼女の細い手首に、ぞっとするような生々しい赤紫色の痣があった。それは単なる打ち身ではなく、指の跡がくっきりと残るような、痛々しい掴み痕だった。
「……ヒナちゃん、それ」
ソウタの声が微かに震えていた。ヒナはハッとしたように腕を引っ込め、袖を下ろすと、無理に作ったようなひきつった笑顔を浮かべた。
「ああ、これ? ちょっと昨日、家で階段から転んじゃってさ。全然大したことないよ。あたし昔からドジだからさ〜」
嘘だ。子供の僕にだってわかった。転んでできるような形じゃない。
それに、島では誰もが知っていた。ヒナの家からは毎晩のように、母親のヒステリックな怒鳴り声と、何か重いものが壁にぶつかる鈍い音が響いていることを。本土から逃げるようにこの島へ越してきた母子。その閉ざされた家の中で何が行われているのか、島の人間は皆、うすうす感づいていた。
けれど、誰一人としてそこに関わろうとはしなかった。「家庭の事情」として、大人は完全に目を背けていた。
ヒナの体にある無数の痣は、狂気に満ちた家庭環境の中で受け続けた、ひどい虐待の痕だった。
「……そっか」
ソウタはそれ以上追及できず、気まずそうに視線をそらした。隣にいたミクも、タクヤも、急に黙り込んでペン先を見つめた。僕らは何も言えなかった。
ヒナの作り笑いがあまりにも切なそうで、ほんの少しでも触れれば、音を立てて崩れ落ちてしまいそうだったからだ。
大人の誰かに言えばいい。学校の先生に、警察に、相談すればいい。
——でも、言ったらどうなる?
もし大人が動いたとして、ヒナはこの家に帰るしかない。その時、母親の暴力はさらに激しくなるのではないか? この島から遠くへ引き離され、二度と会えなくなるのではないか?
「助けて」と言わないヒナの代わりに、僕らが秘密を暴いてしまったら、彼女の居場所を完全に奪ってしまうのではないかという恐怖が、胸を締め付けていた。
僕らは臆病だった。傷つくことから逃げるために、目の前にある地獄を見ないふりをした。
ただ、星を描くノートのページをめくることでしか、彼女の孤独を覆い隠してやることができなかった。
「どうしたの」と踏み込む勇気が、なかった。
そんな僕らの、あまりにも卑怯な沈黙。
そのすべてを、ルカだけが少し離れた木陰から、冷たい目で見つめていた。
そして、夏が終わりに近づいた、あの日。
大人たちが避けている、あの「秘密の崖」
僕らはいつものように、そこにいた。
けれど、いつもならノートを覗き込み、星座の名前を嬉しそうに教えてくれるヒナの様子がおかしかった。
なぜか崖のぎりぎりの縁に立って、足元に広がる波を見下ろしていた。
足を滑らせれば、二度と這い上がれない。
ヒナの背中は、小さく震えていた。
「ヒナちゃん、危ないよ。こっちに来てよ」
ミクが怯えた声で呟いた。だが、その声は波の音にかき消され、ヒナの背中には届かない。
静寂の中、ヒナはゆっくりと振り返った。
その瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
だけどその唇は、あの日の教室と同じように、いつものように、壊れそうな笑みを無理やり作っていた。
——もう、限界だったのだ。
誰も助けてくれない世界で、これ以上痛みに耐える理由も、笑顔を保つ理由も、彼女の中にはもう残っていなかった。
「——みんな、バイバイ」
ゆっくりと、ヒナの足が後ろへ一歩、引かれた。重力に逆らうことをやめたように、ヒナの身体がふわりと宙に浮いていった。




