第3話 錆びついた夏
「ヒナッ……!!」
ソウタが叫び、地面を蹴って飛び出した。
けれど、彼の指先が触れたのは、ほんの一瞬掠めたワンピースの布切れだけだった。ヒナの体は、そのまま吸い込まれるように、黒々とした崖の底へと落ちていった。
悲鳴はなかった。
そして——。
ドッ、という、波の音を掻き消すような、重くて鈍い音が遠くで響いた。
「っ……!」
崖の縁に這いつくばったソウタが、下を覗き込んで、そのまま声にならない叫びを上げてへたり込んだ。ミクは両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。タクヤは腰を抜かし、ガタガタと全身を震わせている。
僕は、ただ立ち尽くしていた。頭の中が真っ白になって、音も色も、すべてが急に遠ざかっていくようだった。
振り返ると、少し離れた木陰の隙間に、ルカが立っていた。ルカは泣いていなかった。笑ってもいなかった。ただ、暗くなる一方の海を、真っ暗な瞳でじっと見下ろしていた。
あの時のルカの顔を、僕は一生忘れない。それは冷酷だったからじゃない。あまりにも絶望しすぎて、感情の糸がプツリと切れてしまった人間の顔だったからだ。それから後のことは、記憶のなかがぐにゃぐにゃに歪んでいる。
大人が集まり、警察が来て、救助艇が出て。
島の空気は、最悪な形で一変した。けれど、それは「悲しみ」の色じゃなかった。
「家庭の事情だ」「これ以上、詮索をするな」
大人の口から出てくるのは、そんな保身の言葉ばかりだった。ヒナが毎晩どんな痛みに耐えていたのか、その体にどれだけの痣があったのか、誰も調べようとしなかった。いや、最初から見ようともしなかった。
警察の取り調べで、僕らは何度も同じ質問をされた。
「足を踏み外したのか?」
「そうだ」
「事故だな?」
「はい」
誰も本当の事を言わなかった。言えなかった。
大人の冷たい視線と、あの島特有の澱んだ空気に押しつぶされて、僕らは「ヒナは自分で勝手に転落した」という嘘を、自分たちのなかに飲み込んでしまった。
けれど、翌日。すべてを狂わせる出来事が起きた。児童相談所や学校の人間が集まる中、ルカが突然、一歩前に出たのだ。その瞳には、あの夕暮れよりも深い闇が宿っていた。
「僕がやった」
ルカのその一言で、その場の空気が凍りついた。
「僕が、ヒナをいじめていた。邪魔だったから、あの崖から突き落とした。全部、僕一人の犯行だ」
警察も、大人たちも、驚くほどあっさりとその言葉を受け入れた。
「やっぱりあいつは関わっちゃいけない子供だったんだ」と、大人は自分たちの責任から逃れるための「正解」を、ルカに着せた。誰も疑わなかった。いや、疑いたくなかったのだ。
ルカはそのまま島外の施設へと連れていかれることになった。パトカーの後部座席に乗せられる直前、遠くにいた僕とルカの目が一度だけ合った。
ルカは何も言わなかった。ただ、一瞬だけ、唇を動かした。
逃げろ、と。




