第三話 明日も会うのに
放課後。日和が紬の机へプリントを置いた。
「ここ分かる?」
「どこ?」
「三番」
「授業でやったやつ」
「それは知ってる」
「じゃあできるでしょ」
「授業中は分かったの。今の私は分からない」
「別人なの?」
「放課後になると少し」
紬が途中式を書くと、日和は椅子を寄せて隣から覗き込んだ。
「ここ?」
「うん」
「あー」
一度は納得したように頷いたのに、数秒後、
「……なんで?」
と聞いてくる。
「分かってないじゃん」
「一瞬分かった」
「短いね」
「もう一回お願いします」
紬は最初から説明し直した。今度は日和も自分で手を動かし、途中で一度消しながら最後まで解く。できた瞬間、プリントを紬へ向けた。
「できた」
「うん」
「紬、先生向いてるかも」
「嫌だよ」
「即答」
日和は笑い、プリントを鞄へしまった。そのままスマートフォンを出して、思い出したように言う。
「そうだ。連絡先交換しよ」
「してなかったね」
「私、昨日気づいた」
「なんで?」
「宿題聞こうと思って」
「今も聞いてたけど」
「それもあるけど……紬に聞きたいときもあるし」
「どういうこと?」
日和が口を開きかけて、やめる。もう一度何か言おうとしたが、結局スマートフォンを紬の方へ向けた。
「……もういいからスマホ出して」
「説明しないの?」
「紬が細かいからやめた」
「日和が言い出したのに」
「はいはい、QR出して」
話を終わらされた。交換が終わると、すぐに日和から猫のスタンプが届く。白い猫が両手を振っていた。
「目の前にいるけど」
「動作確認」
「何の?」
「私から紬に送れるか」
「送れてるね」
「よし」
日和は満足そうにスマートフォンをしまった。
*
その日の夜、九時を少し過ぎた頃に紬のスマートフォンが震えた。
『今ひま?』
日和だった。紬は読んでいた本に指を挟み、『少しなら』と返す。すぐに既読がつき、今度は『電話していい?』と来た。
電話。
明日も学校で会う。それなのに、今日わざわざ話すことがあるのかと思った。それでも紬は『いいよ』と返した。
数秒後、着信が来る。
「もしもし」
『紬?』
「うん」
『ほんとに紬だ』
「日和がかけたんでしょ」
『そうなんだけど、電話だとちょっと違う』
向こうで何かが落ちる音がした。
「今何したの?」
『ペン落とした』
「勉強してるの?」
『してた。今休憩』
「いつから?」
『五分前』
「早くない?」
『十分やったから』
紬は本へ栞を挟んだ。
「それで何?」
『何が?』
「電話」
『ああ』
日和が少し黙る。向こうから引き出しを開けるような音がして、何かを探している気配だけが続いた。
『あ、あった』
「何?」
『消しゴム』
「なくしてたの?」
『ずっと探してた』
「電話しながら?」
『うん』
それきり、しばらく日和が机の上を片づける音だけになった。紬は本をもう一度開き、ページをめくる。
『紬、何してる?』
「本読んでる」
『電話中に?』
「日和も片づけてるでしょ」
『それはそうだけど』
日和が笑った。そのあとも、ページをめくる音や、向こうで何か飲む音だけが続く。どちらも話さない時間があったのに、不思議と切ろうとは思わなかった。
『紬』
「なに?」
『電話って、黙っててもいいんだね』
「だめなの?」
『何か喋らなきゃいけないと思ってた』
「電話によるんじゃない?」
『じゃあこれはいい電話』
「何それ」
日和はまた笑った。
そこから学校の話になった。千夏が先生に当てられたのに違うページを開いていたこと、購買の焼きそばパンがまた買えなかったこと、夕飯に人参が多すぎたこと。紬は全部を面白いとは思わなかったが、日和の話し方を聞いているのは嫌ではなかった。
途中で日和が急に黙った。
「日和?」
『ん?』
「何してるの?」
『髪乾かしてる』
「音しないけど」
『まだドライヤー持っただけ』
「早く乾かせば?」
『電話切らないと聞こえないじゃん』
「切る?」
『……まだいい』
返事だけ少し早かった。
結局、日和はドライヤーを使わないまま喋り続け、向こうから母親の声がした。
『日和、髪乾かしたの?』
『今やるって!』
向こうで慌てて何かを動かす音がして、紬の口元が緩んだ。
『……今、絶対なんか思ったでしょ』
「早く乾かした方がいいと思った」
『紬までお母さんみたいなこと言う』
「風邪ひくから」
『はいはい』
そのあと本当に髪を乾かすことになり、電話はいったん切れた。
三分後。
『終わった』
とメッセージが来る。続いて、
『電話、もう一回する?』
紬は時計を見た。さっきの通話は五十八分になっていた。
『もう遅いから今日はいい』
送ってから少しすると、
『明日も会うのに、今日も喋りたかったんだよね』
と返ってきた。
紬はその文章を二回読んだ。
『そうなんだ』
と打って消す。
『うん』
も何か違う気がした。
迷っているうちに、また日和から届いた。
『おやすみ!』
猫が布団に入っているスタンプ。
紬は『おやすみ』と返した。
*
翌日、学校では昨日電話したことを日和は特に話さなかった。普通に「おはよ」と言い、昼には紬の卵焼きを見て、放課後には数学の別の問題で止まった。
電話したからといって、何かが大きく変わるわけではないらしい。
その夜。紬は本を読みながら、ときどき机の上のスマートフォンを見た。
九時十五分。
何も来ない。
一ページ進めて、また画面を見る。
「……待ってない」
誰に言うでもなく呟いた直後、スマートフォンが震えた。
『今日は眠いから電話しない!』
『おやすみ! また明日』
紬は画面を見たまま息を吐き、『おやすみ』と返した。
本へ目を戻して、一ページ読む。けれど、さっきまで何度も見ていたスマートフォンがまだ視界の端に残っていた。
明日も学校で会う。
それは昨日までと同じなのに、今日は少しだけ違って感じた。




