第四話 一枚だけ
五月の半ば。
六時間目が終わり、紬が教科書を鞄にしまっていると、斜め前から小さなシャッター音がした。
顔を上げる。
日和がスマートフォンをこちらへ向けていた。
「……何してるの?」
「撮った」
「何を?」
「紬」
「消して」
「早い!」
日和は慌ててスマートフォンを胸元へ隠した。動いた拍子に、鎖骨あたりまで伸びた栗色の髪が肩から滑り落ちる。朝から少し跳ねていた毛先は、放課後になってもそのままだった。
「勝手に撮らないで」
「だって今、ちょっといい感じだったから」
「教科書しまってただけだけど」
「そういう普通のところがいいんだって。見る?」
差し出された画面を仕方なく覗き込む。窓際で鞄へ教科書をしまっている自分が写っていた。
「紬って写真だと髪ほんと黒いね」
「そう?」
「うん。横顔も結構好きかも」
「消して」
「褒めたのに!」
日和がスマートフォンを取り返しながら笑う。
「じゃあ今度はちゃんと撮らせて」
「結局撮るんじゃん」
「今度は勝手に撮らないから」
日和がスマートフォンを鞄へ戻したとき、口から淡い水色の表紙が覗いた。側面についた白い猫のキーホルダーが、机の縁で小さく揺れる。
「それ」
「ん?」
「ノート」
「ああ、これ?」
日和が取り出したのは『今度にしない』だった。何ページかめくると、『放課後に寄り道する』と『夜に友達と電話する』にはチェックが入っている。その下に、『制服で写真を撮る』。
「これ、まだなの?」
「一応」
「写真撮ってるでしょ」
「そうじゃなくて、制服でどっか行って、ちゃんと撮りたいの」
「違いある?」
「気分」
「気分なんだ」
「大事だよ」
日和が頷く。
「まあ、そのうちね」
「そのうち?」
日和の動きが止まった。
「……あ」
「今度にしないんじゃなかったの?」
「そうでした」
「じゃあ今日撮ればいいじゃん」
日和が紬を見る。
「今日?」
「予定ないんでしょ」
「ないけど」
「じゃあできるでしょ」
紬が鞄のファスナーを閉めると、日和はまだこちらを見ていた。
「なに?」
「……紬から言ってくれると思わなかった」
「嫌ならやめる?」
「やる!」
返事は早かった。
「絶対やる」
「分かったよ」
「だって嬉しいんだもん」
言ったあと、日和は口を閉じた。
「……帰ろ」
「急だね」
「いいから!」
日和は鞄を肩へ掛けた。
*
校門を出てしばらく歩いたところで、日和が辺りを見回す。
「どこで撮ろう」
「決めてなかったんだ」
「今から探すの」
「勢いだけだったね」
「勢いは大事です」
風が吹き、日和の髪が頬にかかった。耳へかけても、毛先がまた外へ跳ねる。
「髪、跳ねてるよ」
「どこ?」
「右」
「直して」
「自分でやれば?」
「見えない」
日和が立ち止まったので、紬は手を伸ばした。頬の近くで跳ねていた髪を指先で整える。
「これでいい?」
「……うん」
日和が動かない。
「なに?」
「近いなと思って」
「日和が直してって言ったんでしょ」
「そうだけど」
そう言いながら、日和は紬が触れたあたりを自分でも押さえた。
駅前の歩道橋まで来ると、道路の向こうに海が少しだけ見えた。建物の隙間から覗く青を見て、日和が足を止める。
「ここ」
「歩道橋?」
「海見えるし」
「少しだけだけど」
「少しくらいがいいの」
もう決めたらしい。
日和がスマートフォンを取り出す。
「ほら、紬。こっち」
「ここで入ってるでしょ」
「半分しか入ってない」
袖を引かれ、一歩近づく。肩が触れ、画面の中に二人の顔が並んだ。
「紬、もうちょっと笑って」
「いつもこんな感じだよ」
「じゃあ私が笑わせる」
「どうやって?」
「待って。今考える」
日和が急に真剣な顔になった。
画面ではなく、その横顔を見ていると、写真一枚のために本気で悩んでいることがおかしくなってくる。
日和がこちらを向いた。
その瞬間、スマートフォンを持つ指がシャッターボタンに触れる。
カシャッ。
「あ」
二人同時に声が出た。
「撮れた?」
「撮れたけど……絶対変」
日和が写真を開く。
「ほら! 私、変な顔してる!」
紬も画面を覗き込んだ。
写真の中の日和は、カメラではなく紬を見ていた。少し驚いたような顔で、栗色の髪が風に乱れている。
その隣で、紬もカメラを見ていなかった。
日和を見て、笑っていた。
「……日和、変な顔」
「だから消す!」
日和が画面へ指を伸ばす。
紬は反射的に、その手を掴んだ。
「……紬?」
「これでいいんじゃない?」
「え?」
「写真」
紬は手を離した。
「日和が言ってた普通の写真って、こういうのでしょ」
「そうだけど……紬もカメラ見てないよ」
「日和見てるね」
「うん」
日和は写真を見たまま黙った。
「嫌なら撮り直せば?」
「……嫌じゃない」
声が少しだけ小さかった。
「じゃあ、これにする」
日和は『今度にしない』を取り出し、『制服で写真を撮る』の横へチェックを入れた。
「一枚だけでいいの?」
「うん。一枚だけでいい」
数秒後、紬のスマートフォンにも同じ写真が届いた。
「……私、笑ってる」
「ほんとだね」
「気づかなかった」
「私も」
日和が隣から画面を覗き込む。
「紬って、こういう顔するんだ」
「どういう顔?」
「私が見てる紬って感じ」
「何それ」
「私にも分かんない」
「じゃあ言わなきゃいいのに」
「思ったから言いたかったの」
日和はそう言って先に歩き出した。
紬もその隣へ並んだ。
*
その夜。
『今日の写真、結構好き!』
日和から、昼間と同じ写真が送られてきた。
『日和、変な顔してるけど』
『まだ言う!?』
怒った猫のスタンプが続く。
少しして、
『紬笑ってるね』
と届いた。
『日和が変な顔してたから』
『じゃあまた笑わせる』
紬の指が止まった。
『別に笑わせなくていいよ』
『なんで?』
少し考えて、文字を打つ。
『勝手に笑うから』
既読がついた。
返事はなかなか来ず、一分ほどして、猫が両手で顔を隠しているスタンプだけが届いた。
紬には、その意味がよく分からなかった。
スマートフォンを置こうとして、もう一度写真を見る。
日和は紬を見ている。紬も日和を見ている。
紬は画面を閉じて本を開いた。
数ページ進んだところで、またスマートフォンへ手を伸ばした。




