第二話 今度って、いつ?
昼休み。紬が弁当箱を開くと、向かいから視線を感じた。顔を上げると、日和が卵焼きを見ている。
「なに?」
「甘いやつ?」
「うん」
「いいな」
「食べる?」
「いいの?」
返事だけは早かった。紬が弁当箱の蓋に一つ置くと、日和は箸を取り出すのも面倒だったのか、爪楊枝で刺してそのまま口へ入れた。
「甘い」
「そうだね」
「私、こっちの方が好き」
「しょっぱいのより?」
「うん。絶対甘い方。覚えといて」
「なんで?」
「友達の好きなものくらい覚えるでしょ」
紬は少しだけ日和を見る。
「友達なんだ」
「え?」
日和の手が止まった。口に入れようとしていたパンを一度下ろして、紬の顔を見る。
「違うの?」
「いや、違わないけど」
「じゃあいいじゃん」
「紬がそういうのちゃんと言うと思ってなかった」
「言ったのは日和でしょ」
「……そうだった」
日和は自分で言って、自分で納得したらしい。そのあとすぐ、次の体育が嫌だとか、購買の焼きそばパンを一度も買えたことがないとか、朝スマートフォンを家に忘れかけたとか、別の話を始めた。日和の話はよく飛ぶ。紬は全部には返事をしなかったが、それでも日和は気にせず喋っていた。
*
放課後。下駄箱で靴を履き替えていると、隣から日和が顔を出した。
「紬、今日すぐ帰る?」
「別に」
「じゃあ寄り道しよ」
「どこに?」
「決めてない」
「決めてから誘ってよ」
「歩きながら決めればいいじゃん」
日和はもう靴を履き終えていて、断られることをあまり考えていない顔をしている。紬にも特に断る理由はなかったので、そのまま一緒に校門を出た。
駅までの道には同じ制服の生徒が何人も歩いていた。日和は人を避けながら、紬より半歩くらい前を歩く。
「紬って寄り道しない?」
「たまに本屋」
「一人で?」
「うん。日和は?」
日和が振り返った。
ほんの一拍だけ紬の顔を見てから、
「私? 結構するよ」
「一人でも?」
「するけど、今日は二人」
それだけ言うと、日和はまた前を向いた。
「でも本屋は寄り道っていうか用事じゃない?」
「違うの?」
「違うよ。寄り道はもっと意味ないやつ」
日和はそう言って、交差点の向こうにある小さなクレープ屋を指さした。
「ほら、あそこ」
「食べたいの?」
「今食べたくなった」
「さっきパン食べてたけど」
「あれ昼」
「まだ二時間くらいしか経ってないよ」
「高校生だから」
理由になっていなかった。店の前まで来ると、日和はメニューを見上げたまま本気で悩み始める。
「迷う」
「何にするつもりだったの?」
「苺」
「じゃあそれでいいじゃん」
「でもチョコバナナもある」
「好きなの苺じゃないの?」
「好きなものが一個とは限らないでしょ」
二分近く悩んだ末、結局選んだのは苺だった。紬は何も買わず、店の脇で待つ。
「紬、ほんとにいらないの?」
「うん」
「一口あげよっか」
「いらない」
「まだ食べてないよ」
「苺でしょ」
「おいしい苺かもしれないじゃん」
日和は笑いながら一口食べた。すぐに口元へクリームがついたが、本人は気づいていない。紬が自分の口元を指さすと、日和は反対側を拭いた。
「ついてる」
「どこ?」
「そっちじゃない。もう少し右」
「こっち?」
「反対」
「分かんない」
何度やってもずれるので、紬は途中で諦めた。
「スマホ見れば?」
「あ」
日和はカメラを開き、ようやく自分でクリームを拭った。
「最初から言ってよ」
「今思いついた」
「紬、たまに不親切だよね」
「取ってあげればよかった?」
「それはちょっと恥ずかしい」
言ってから、日和は一瞬だけクレープへ目を落とした。けれどすぐにまた歩き出し、「帰ろ」といつもの声に戻った。
駅へ向かう途中、日和が突然足を止めた。鞄から淡い水色の小さなノートを取り出し、路肩の低い柵の上で開く。
「何それ?」
「ノート」
「見れば分かるよ」
表紙をめくると、上に『今度にしない』と書かれていた。
その下には、『放課後に寄り道する』『制服で写真を撮る』『海を見に行く』『夜に友達と電話する』『誰かの家に泊まる』『花火をする』『夜更かしして映画を見る』と並んでいる。
日和は一番上の横へ、小さくチェックを入れた。
「今日のこれ?」
「うん」
「普通のことばっかりだね」
「そうだよ」
「……死ぬ前にやりたいこと?」
聞いた瞬間、日和のペン先が止まった。怒ったわけではなかった。ただ、さっきまでより少しだけ真っ直ぐ紬を見る。
「違うよ」
日和はノートを閉じず、ペンのキャップを指先で弄んだ。
「昔から『元気になったら』って言うこと多かったの。海も、泊まりも、夜更かしも」
「病院とか?」
「うん。退院したらとか、検査終わったらとか、もうちょっと体調よくなったらとか。でも、そのうちって結構来ないんだよね」
「来ない?」
「来ることもあるよ。でも忘れたり、別の予定入ったり、また体調崩したり」
駅へ向かうバスが、二人の前を通り過ぎた。日和はその音が消えるのを待つように少し黙ってから、また口を開く。
「それで思ったの。今度って、いつ?」
紬は答えなかった。日和も別に答えを求めているようには見えなかった。
「元気になったらじゃなくて、できる日にやる。今日できるなら、今日やる」
「でもこれ、そんなのいつでもできるじゃん」
「うん」
日和は笑って、チェックのついた『放課後に寄り道する』を指で軽く叩いた。
「だから今日やった。クレープ食べただけだけどね」
「意味ない寄り道なんでしょ」
「そう。それがいいの」
日和はノートを閉じ、また駅へ向かって歩き始めた。紬もその隣へ並ぶ。
「紬は?」
「なに?」
「そういうのないの? 今度やろうって思ってること」
「特にない」
「一個くらいあるでしょ」
「本屋行く」
「それ今日でもできるじゃん」
「今度でいいよ」
「あ」
日和が嬉しそうにこちらを向いた。
「今言った」
「何が?」
「今度」
「言ったね」
「いつ?」
「……分からない」
「でしょ?」
勝ったような顔をする。何に勝ったのかは分からなかった。
駅前で二人は別れた。
「じゃあまた明日」
「うん」
日和は数歩進んでから振り返った。
「紬」
「なに?」
「今日楽しかった」
「クレープ?」
「寄り道」
日和はそれだけ言って手を振った。紬も小さく手を上げる。
家に帰って本を開いた。数ページ読んだところで、昼間の日和の声が浮かぶ。
今度って、いつ?
今日。明日。来週。紬にとっては、どれも大きく違わなかった。何かができなくなる日を、考えたことがなかったから。
本を閉じ、少ししてまた開いた。
けれど、さっきと同じ行をもう一度読んでいた。




