↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死んだら好きって言うね  作者: 天城 真空(そら)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/9

第一話 鞄、持っていく?

誰かが倒れたとき、人は思っていたより大きな声を出す。


「宮原さん!」


四月の終わり、五時間目の体育。まだ少し冷たい風がグラウンド脇のテニスコートを吹き抜けていた。


佐伯紬(さえきつむぎ)はソフトテニスのラケットを持ったまま振り返った。少し離れた場所で、一人の女子生徒が地面に膝をついている。


宮原日和(みやはらひより)


同じクラスになって三週間ほど経つが、話したことはない。名前くらいは知っていた。休み時間になれば誰かと喋っていて、笑い声もよく聞こえる。今朝も友達の机の横で何かを話しながら、自分で言ったことに自分で笑っていた。


今は片手を地面につき、もう片方の手を胸元へ添えて俯いている。


「先生呼んで!」

「宮原さん、大丈夫?」

「保健室行った方がいいよ!」


近くにいた生徒が一斉に集まった。背中をさする子、顔を覗き込む子、体育教師を呼びに走る子までいる。


紬はその輪から数歩離れた場所に立っていた。何かした方がいいのかもしれない。でも、もう人は十分にいる。十人で囲んだからといって、体調が十倍早く戻るわけではない。


体育教師が走ってきた。


「宮原、立てるか?」

「……はい」


日和は一度呼吸を整えてから頷いた。顔は白かったが、教師の腕を借りて自分の足で立ち上がる。


「救急車、呼ぶか?」

「大丈夫です。いつものことなので」

「平気か?」

「はい。ちょっと休めば」


その返事を聞いて、周りの生徒たちもようやく一歩ずつ離れ始めた。


いつものこと。


初めてではないらしい。


紬はラケットを持ち直しながら、もう一度日和を見た。普段は体調の悪さなんて感じさせない。病気のある人がどう見えるものなのか、紬も知らないけれど、少なくとも昨日までの日和と、目の前の日和は簡単には結びつかなかった。


教師に付き添われて日和がコートを出ようとしたとき、ベンチのそばに黒いサブバッグが残っていることに気づいた。側面には、小さな白い猫のキーホルダーがついている。さっきまで日和が使っていたものだった。


「先生」

「ん?」

「これ」


紬が鞄を持ち上げると、教師も気づいた。


「ああ、宮原のか。悪い佐伯、授業終わったら保健室に持ってきてやってくれるか?」

「今、持っていかなくていいんですか?」

「今?」

「必要なもの入ってるかもしれないし」


教師が日和を見る。


日和も振り返り、そこで初めて自分の鞄が残っていることに気づいたらしい。


「あ、忘れてた」


倒れた直後なのに、その言い方だけは妙に普通だった。


「じゃあ佐伯、頼めるか?」

「はい」


紬は日和の鞄を肩に掛ける。


思っていたより軽かった。



保健室の前まで来ると、中から話し声が聞こえた。


「今日はもう帰った方がいいんじゃない?」

「もう平気です」

「平気って言う子ほど信用できないのよ」

「ひどい!」


声だけ聞けば、さっき地面に膝をついていた人とは思えなかった。


紬は扉を二度ノックする。


「どうぞ」


引き戸を開けると、日和は窓際の椅子に座っていた。ジャージ姿のまま紙コップを両手で持ち、保健室の先生と話している。頬にも少し色が戻っていた。


「これ」

「あ、私の」


紬が鞄を差し出すと、日和は紙コップを机へ置いて受け取った。白い猫がその拍子に揺れる。


「わざわざ持ってきてくれたの?」

「先生に言われたから」

「あ、そっか。ありがとう」

「ここでいい?」

「うん」


用事は終わった。


紬が扉へ向かうと、背中から声が飛んできた。


「あの、佐伯さん、だよね?」

「そう」

「よかった。間違ってたら気まずかった」

「三週間同じクラスだけど」

「でも佐伯さん、あんまり喋らないじゃん」

「喋るよ」

「私とは喋ったことない」

「今、喋ってるけど」


日和の口が一度止まった。


すぐに笑い声が漏れる。


「変な人」

「初めて喋った人に言う?」

「だって変だったから」

「帰っていい?」

「あ、ごめんごめん」


日和が紙コップへ手を伸ばす。


紬がもう一度扉へ向くと、


「ねえ、佐伯さん」


また呼ばれた。


「なに?」

「さっき、びっくりしなかった?」


紬は振り返る。


「したよ」

「嘘。全然そういう顔してなかった」

「顔に出にくいだけ」

「みんなすごい顔してたよ」


日和は紙コップを持ち上げたものの飲まず、縁を親指でなぞっている。


「今にも死にそうな人を見る顔」


紬は日和を見る。


さっきまで笑っていたのに、その言葉を口にしたときだけ目が紬から外れた。


「死にそうだったの?」

「……普通そこ聞く?」


今度は日和の方が驚いた。


「自分で言ったから」

「たとえだよ」

「じゃあ違うんだ」

「今日は違う」


紬はその返事を聞き、少し間を置いた。


今日は。


気にはなった。でも、本人がその先を言わないなら聞くことでもない。


「ならよかった」


日和が紬を見る。


「それだけ?」

「何が?」

「いや……普通もっと聞かない?」

「聞いてほしいの?」

「それ聞かれると困る」

「じゃあ聞かない」

「佐伯さん、会話がすごいところで終わるね」


日和は困ったように笑い、ようやく紙コップの水を一口飲んだ。


「佐伯さんって、優しいのか冷たいのか分かんない」

「どっちでもないと思う」

「自分では?」

「普通」

「それ一番信用できないやつだ」


保健室の先生が書類を書きながら吹き出した。


紬はそちらを見る。


「先生まで笑ってる」

「ごめんごめん。二人とも面白くて」

「私、普通に話してるだけですけど」

「佐伯さん、それ本気で言ってる?」

「うん」

「やっぱ変だ」


日和は楽しそうに言った。


「じゃあ、また教室で」

「今日は帰るんじゃないの?」

「たぶん帰らされる」

「なら明日」

「うん」


紬が扉へ手をかける。


「佐伯さん」

「なに?」

「鞄、ほんとにありがと」


今度の声には、ふざけた調子がなかった。


紬は一度だけ頷いて保健室を出た。



翌日、日和は学校を休んだ。


朝のホームルームで担任が「今日は大事を取って休みです」と告げると、教室の何人かが昨日のことを話し始めた。


紬は一度、日和の席を見る。


椅子は机の下にきちんと収まっていて、横に掛かっているはずの黒い鞄も、白い猫もない。


「紬」


隣の席の椎名千夏が、小さな声で呼んだ。


「昨日、宮原さんの鞄届けたんだって?」

「うん」

「どうだった?」

「普通」

「昨日倒れた人に普通って、すごい感想だね」

「保健室では元気そうだったから」

「そうなんだ」


千夏は少し声を落とした。


「心臓、悪いらしいよ」

「そうなんだ」

「知らなかった?」

「うん」


紬は教科書を机から出す。


千夏は何か続けようとしていたようだったが、紬がそれ以上聞かないのを見てやめた。


病気は本人のものだと思う。日和自身が話していないことを、本人のいないところで集めるのは違う気がした。


それで話は終わった。


一時間目も二時間目も、いつも通り授業が進んだ。昼休みには千夏と弁当を食べ、放課後には本屋へ寄った。日和がいなくても、学校は普通に一日進む。


ただ、昼休みに教室へ戻ってきたとき、紬は一度日和の席を見た。


放課後、鞄を持ったときにも見た。


そこに誰もいないことを確認してから、自分でも少し変だと思った。


昨日、初めて話しただけなのに。



日和が登校してきたのは、その翌日だった。


教室へ入る前から声が聞こえた。


「もう大丈夫?」

「ほんとに平気?」

「大丈夫だって。みんな大げさ!」

「だって倒れたじゃん」

「倒れただけ」

「だけって何!」


笑い声が起きる。


紬は自分の席で本を開いた。日和がいることはもう分かっているのに、同じ行を二度読んでいる。


「おはよう、佐伯さん」


顔を上げる。


日和が机の横に立っていた。


昨日休んでいたことを感じさせない顔をしている。


「おはよう」

「昨日休んじゃった」

「知ってるよ」

「知ってるんだ」

「席空いてたから」

「そっか」


日和はそれだけ言ってから、紬の机に指先を置いた。


「私いなくて寂しかった?」

「なんで?」

「聞いてみただけ」

「別に」

「即答だ」


唇を尖らせる。


「一回しか喋ったことない人が休んで寂しくなる?」

「なるかもしれないじゃん」

「宮原さんはなるの?」

「人によるかな」

「じゃあ私も人による」

「ずるい。それ私の答えじゃん」

「宮原さんが先に言った」

「やっぱ佐伯さん変だよ」


日和は笑いながら言ったが、その場を離れなかった。


「そうだ。昨日ね、一昨日のこと考えてた」

「倒れたこと?」

「それもだけど、佐伯さんが鞄持ってきてくれたときのこと」


日和は机の端へ目を落とし、指先で小さな傷をなぞった。


「みんな心配してくれたんだよ。先生もクラスの子も。ありがたいし、嫌だったわけじゃない」


そこまで言って、一度言葉が止まる。


教室の前では、誰かが昨日のテレビの話をして笑っていた。


「でも、みんな私が死ぬんじゃないかって顔してた」


日和は今度は笑わなかった。


「心配してくれてるのは分かってるんだけど、ああいう顔されるとさ。私だけ急に、みんなと違うものになったみたいな感じするんだよね」


紬は黙って聞いた。


日和はそこで顔を上げる。


「でも佐伯さん、私が保健室行くとき鞄のこと気にしてたでしょ」

「忘れてたから」

「そう。それ」


今度は口元が緩んだ。


「私のこと、死にそうな人じゃなくて、鞄忘れそうな人として見てた」

「実際忘れてたけど」

「だから嬉しかったの」

「……それで嬉しいんだ」

「嬉しいよ」


日和は迷わなかった。


「病気あるけど、ずっと病気の人でいたいわけじゃないし」

「うん」

「普通に忘れ物もするし」

「一昨日してたね」

「そこ今言う?」

「宮原さんが言ったんでしょ」


日和は一度紬を睨むふりをしてから、結局口元を崩した。


「やっぱ変」

「三回目」

「数えてたの?」

「今日二回目」

「一昨日のも入れてるじゃん」

「覚えてたから」

「そういうの覚えてるんだ」


日和は何かを考えるように紬を見た。


そのうち、急に言う。


「ねえ、これから紬って呼んでいい?」

「なんで?」

「佐伯さんよりそっちの方がいい」

「勝手に決めないで」

「じゃあ、紬」

「もう呼んでるじゃん」

「反応した」

「名前だからでしょ」

「じゃあ決まりね」

「決まってないよ」


日和は満足そうに自分の席へ戻っていった。


途中で友達に呼ばれ、すぐに別の話へ混ざっている。昨日までと同じように笑っていて、机の横には黒い鞄が掛かっている。


白い猫も、いつもの場所にいた。


紬は本へ視線を戻した。


今度はちゃんと一行読み進める。


けれど休み時間が終わる少し前、日和の笑い声が聞こえて、もう一度だけそちらを見た。


目が合った。


日和が何の迷いもなく手を振ってくる。


紬は一瞬迷ってから、小さく手を上げた。


日和はそれだけで満足したらしく、また友達との話へ戻った。


翌朝。


教室へ入った紬は、自分の席へ向かう途中で日和の席を見た。


いた。


それを確認してから、いつものように鞄を置いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。