第一話 鞄、持っていく?
誰かが倒れたとき、人は思っていたより大きな声を出す。
「宮原さん!」
四月の終わり、五時間目の体育。まだ少し冷たい風がグラウンド脇のテニスコートを吹き抜けていた。
佐伯紬はソフトテニスのラケットを持ったまま振り返った。少し離れた場所で、一人の女子生徒が地面に膝をついている。
宮原日和。
同じクラスになって三週間ほど経つが、話したことはない。名前くらいは知っていた。休み時間になれば誰かと喋っていて、笑い声もよく聞こえる。今朝も友達の机の横で何かを話しながら、自分で言ったことに自分で笑っていた。
今は片手を地面につき、もう片方の手を胸元へ添えて俯いている。
「先生呼んで!」
「宮原さん、大丈夫?」
「保健室行った方がいいよ!」
近くにいた生徒が一斉に集まった。背中をさする子、顔を覗き込む子、体育教師を呼びに走る子までいる。
紬はその輪から数歩離れた場所に立っていた。何かした方がいいのかもしれない。でも、もう人は十分にいる。十人で囲んだからといって、体調が十倍早く戻るわけではない。
体育教師が走ってきた。
「宮原、立てるか?」
「……はい」
日和は一度呼吸を整えてから頷いた。顔は白かったが、教師の腕を借りて自分の足で立ち上がる。
「救急車、呼ぶか?」
「大丈夫です。いつものことなので」
「平気か?」
「はい。ちょっと休めば」
その返事を聞いて、周りの生徒たちもようやく一歩ずつ離れ始めた。
いつものこと。
初めてではないらしい。
紬はラケットを持ち直しながら、もう一度日和を見た。普段は体調の悪さなんて感じさせない。病気のある人がどう見えるものなのか、紬も知らないけれど、少なくとも昨日までの日和と、目の前の日和は簡単には結びつかなかった。
教師に付き添われて日和がコートを出ようとしたとき、ベンチのそばに黒いサブバッグが残っていることに気づいた。側面には、小さな白い猫のキーホルダーがついている。さっきまで日和が使っていたものだった。
「先生」
「ん?」
「これ」
紬が鞄を持ち上げると、教師も気づいた。
「ああ、宮原のか。悪い佐伯、授業終わったら保健室に持ってきてやってくれるか?」
「今、持っていかなくていいんですか?」
「今?」
「必要なもの入ってるかもしれないし」
教師が日和を見る。
日和も振り返り、そこで初めて自分の鞄が残っていることに気づいたらしい。
「あ、忘れてた」
倒れた直後なのに、その言い方だけは妙に普通だった。
「じゃあ佐伯、頼めるか?」
「はい」
紬は日和の鞄を肩に掛ける。
思っていたより軽かった。
*
保健室の前まで来ると、中から話し声が聞こえた。
「今日はもう帰った方がいいんじゃない?」
「もう平気です」
「平気って言う子ほど信用できないのよ」
「ひどい!」
声だけ聞けば、さっき地面に膝をついていた人とは思えなかった。
紬は扉を二度ノックする。
「どうぞ」
引き戸を開けると、日和は窓際の椅子に座っていた。ジャージ姿のまま紙コップを両手で持ち、保健室の先生と話している。頬にも少し色が戻っていた。
「これ」
「あ、私の」
紬が鞄を差し出すと、日和は紙コップを机へ置いて受け取った。白い猫がその拍子に揺れる。
「わざわざ持ってきてくれたの?」
「先生に言われたから」
「あ、そっか。ありがとう」
「ここでいい?」
「うん」
用事は終わった。
紬が扉へ向かうと、背中から声が飛んできた。
「あの、佐伯さん、だよね?」
「そう」
「よかった。間違ってたら気まずかった」
「三週間同じクラスだけど」
「でも佐伯さん、あんまり喋らないじゃん」
「喋るよ」
「私とは喋ったことない」
「今、喋ってるけど」
日和の口が一度止まった。
すぐに笑い声が漏れる。
「変な人」
「初めて喋った人に言う?」
「だって変だったから」
「帰っていい?」
「あ、ごめんごめん」
日和が紙コップへ手を伸ばす。
紬がもう一度扉へ向くと、
「ねえ、佐伯さん」
また呼ばれた。
「なに?」
「さっき、びっくりしなかった?」
紬は振り返る。
「したよ」
「嘘。全然そういう顔してなかった」
「顔に出にくいだけ」
「みんなすごい顔してたよ」
日和は紙コップを持ち上げたものの飲まず、縁を親指でなぞっている。
「今にも死にそうな人を見る顔」
紬は日和を見る。
さっきまで笑っていたのに、その言葉を口にしたときだけ目が紬から外れた。
「死にそうだったの?」
「……普通そこ聞く?」
今度は日和の方が驚いた。
「自分で言ったから」
「たとえだよ」
「じゃあ違うんだ」
「今日は違う」
紬はその返事を聞き、少し間を置いた。
今日は。
気にはなった。でも、本人がその先を言わないなら聞くことでもない。
「ならよかった」
日和が紬を見る。
「それだけ?」
「何が?」
「いや……普通もっと聞かない?」
「聞いてほしいの?」
「それ聞かれると困る」
「じゃあ聞かない」
「佐伯さん、会話がすごいところで終わるね」
日和は困ったように笑い、ようやく紙コップの水を一口飲んだ。
「佐伯さんって、優しいのか冷たいのか分かんない」
「どっちでもないと思う」
「自分では?」
「普通」
「それ一番信用できないやつだ」
保健室の先生が書類を書きながら吹き出した。
紬はそちらを見る。
「先生まで笑ってる」
「ごめんごめん。二人とも面白くて」
「私、普通に話してるだけですけど」
「佐伯さん、それ本気で言ってる?」
「うん」
「やっぱ変だ」
日和は楽しそうに言った。
「じゃあ、また教室で」
「今日は帰るんじゃないの?」
「たぶん帰らされる」
「なら明日」
「うん」
紬が扉へ手をかける。
「佐伯さん」
「なに?」
「鞄、ほんとにありがと」
今度の声には、ふざけた調子がなかった。
紬は一度だけ頷いて保健室を出た。
*
翌日、日和は学校を休んだ。
朝のホームルームで担任が「今日は大事を取って休みです」と告げると、教室の何人かが昨日のことを話し始めた。
紬は一度、日和の席を見る。
椅子は机の下にきちんと収まっていて、横に掛かっているはずの黒い鞄も、白い猫もない。
「紬」
隣の席の椎名千夏が、小さな声で呼んだ。
「昨日、宮原さんの鞄届けたんだって?」
「うん」
「どうだった?」
「普通」
「昨日倒れた人に普通って、すごい感想だね」
「保健室では元気そうだったから」
「そうなんだ」
千夏は少し声を落とした。
「心臓、悪いらしいよ」
「そうなんだ」
「知らなかった?」
「うん」
紬は教科書を机から出す。
千夏は何か続けようとしていたようだったが、紬がそれ以上聞かないのを見てやめた。
病気は本人のものだと思う。日和自身が話していないことを、本人のいないところで集めるのは違う気がした。
それで話は終わった。
一時間目も二時間目も、いつも通り授業が進んだ。昼休みには千夏と弁当を食べ、放課後には本屋へ寄った。日和がいなくても、学校は普通に一日進む。
ただ、昼休みに教室へ戻ってきたとき、紬は一度日和の席を見た。
放課後、鞄を持ったときにも見た。
そこに誰もいないことを確認してから、自分でも少し変だと思った。
昨日、初めて話しただけなのに。
*
日和が登校してきたのは、その翌日だった。
教室へ入る前から声が聞こえた。
「もう大丈夫?」
「ほんとに平気?」
「大丈夫だって。みんな大げさ!」
「だって倒れたじゃん」
「倒れただけ」
「だけって何!」
笑い声が起きる。
紬は自分の席で本を開いた。日和がいることはもう分かっているのに、同じ行を二度読んでいる。
「おはよう、佐伯さん」
顔を上げる。
日和が机の横に立っていた。
昨日休んでいたことを感じさせない顔をしている。
「おはよう」
「昨日休んじゃった」
「知ってるよ」
「知ってるんだ」
「席空いてたから」
「そっか」
日和はそれだけ言ってから、紬の机に指先を置いた。
「私いなくて寂しかった?」
「なんで?」
「聞いてみただけ」
「別に」
「即答だ」
唇を尖らせる。
「一回しか喋ったことない人が休んで寂しくなる?」
「なるかもしれないじゃん」
「宮原さんはなるの?」
「人によるかな」
「じゃあ私も人による」
「ずるい。それ私の答えじゃん」
「宮原さんが先に言った」
「やっぱ佐伯さん変だよ」
日和は笑いながら言ったが、その場を離れなかった。
「そうだ。昨日ね、一昨日のこと考えてた」
「倒れたこと?」
「それもだけど、佐伯さんが鞄持ってきてくれたときのこと」
日和は机の端へ目を落とし、指先で小さな傷をなぞった。
「みんな心配してくれたんだよ。先生もクラスの子も。ありがたいし、嫌だったわけじゃない」
そこまで言って、一度言葉が止まる。
教室の前では、誰かが昨日のテレビの話をして笑っていた。
「でも、みんな私が死ぬんじゃないかって顔してた」
日和は今度は笑わなかった。
「心配してくれてるのは分かってるんだけど、ああいう顔されるとさ。私だけ急に、みんなと違うものになったみたいな感じするんだよね」
紬は黙って聞いた。
日和はそこで顔を上げる。
「でも佐伯さん、私が保健室行くとき鞄のこと気にしてたでしょ」
「忘れてたから」
「そう。それ」
今度は口元が緩んだ。
「私のこと、死にそうな人じゃなくて、鞄忘れそうな人として見てた」
「実際忘れてたけど」
「だから嬉しかったの」
「……それで嬉しいんだ」
「嬉しいよ」
日和は迷わなかった。
「病気あるけど、ずっと病気の人でいたいわけじゃないし」
「うん」
「普通に忘れ物もするし」
「一昨日してたね」
「そこ今言う?」
「宮原さんが言ったんでしょ」
日和は一度紬を睨むふりをしてから、結局口元を崩した。
「やっぱ変」
「三回目」
「数えてたの?」
「今日二回目」
「一昨日のも入れてるじゃん」
「覚えてたから」
「そういうの覚えてるんだ」
日和は何かを考えるように紬を見た。
そのうち、急に言う。
「ねえ、これから紬って呼んでいい?」
「なんで?」
「佐伯さんよりそっちの方がいい」
「勝手に決めないで」
「じゃあ、紬」
「もう呼んでるじゃん」
「反応した」
「名前だからでしょ」
「じゃあ決まりね」
「決まってないよ」
日和は満足そうに自分の席へ戻っていった。
途中で友達に呼ばれ、すぐに別の話へ混ざっている。昨日までと同じように笑っていて、机の横には黒い鞄が掛かっている。
白い猫も、いつもの場所にいた。
紬は本へ視線を戻した。
今度はちゃんと一行読み進める。
けれど休み時間が終わる少し前、日和の笑い声が聞こえて、もう一度だけそちらを見た。
目が合った。
日和が何の迷いもなく手を振ってくる。
紬は一瞬迷ってから、小さく手を上げた。
日和はそれだけで満足したらしく、また友達との話へ戻った。
翌朝。
教室へ入った紬は、自分の席へ向かう途中で日和の席を見た。
いた。
それを確認してから、いつものように鞄を置いた。




