第9話:不払いにした家には、必ず行きます
土曜日の午前、俺は電車に乗っていた。
三ツ谷剛の自宅は、支社から四十分の私鉄沿線にある。築十五年の分譲マンション。ローンは、あと十九年残っている。書類で全部知っていた。
六花は、駅の改札で待っていた。頼んでいない。
「なんでいるんですか」
「なんでって、そっちこそ何してるんですか」
「訪問です」
「訴えられてる相手の家に、休みの日に行くんですか」
「行きます」
六花は俺の顔をしばらく見ていた。
「……前から思ってたんですけど。鵜飼さん、それ、毎回やってます?」
「不払いにした家には、必ず行きます」
「必ず」
「五年で、四十三件です」
六花は、その数字を聞いて黙った。
「……四十三件、全部?」
「全部です」
「なんて言うんですか、行って」
「何も言いません。名乗って、こちらの判断を説明して、質問があれば答えます」
「謝らないんですか」
「謝りません」
「なんで」
「謝ると、判断が間違っていた事になります。間違っていないなら、謝るのは失礼です」
「……それ、めちゃくちゃ怒られません?」
「怒られます」
「怒られに行ってるんですか、それ」
「違います。数えに行っています」
言い訳をしておくと、これは善意ではない。俺は不払いにした案件の遺族に、謝りに行っているわけではない。謝るなら、決裁を変えるべきだ。変えられないから行く。
自分が止めた金の先に、どういう生活があるのかを見ないまま次の案件をやると、たぶん俺は数字だけの人間になる。なってしまえば、榛原と同じ手つきになる。それだけの理由だった。
43件のうち、家に上げてもらえたのは6件だ。3件は水をかけられた。1件は警察を呼ばれた。残りは、今日と同じでドアの前で終わった。
三年目に行った家に、小学生の男の子がいた。父親が第二層で死んで、うちは払わなかった。故意の免責だった。その子は俺に、お父さんはどこで死んだのかと聞いた。俺は場所を答えた。答えられる事しか答えられなかった。
その子は、ありがとうございました、と言った。母親が奥から出てきて、ドアを閉めた。
あれ以来、俺は行くのをやめていない。やめる理由が見つからないからだ。
インターホンを押した。応答は無かった。二度目も無かった。三度目を押そうとした時、ドアが開いた。
三ツ谷佐和子は、俺を見て、ドアを閉めた。閉め方は静かだった。
「帰ってください」
ドア越しの声だった。
「はい」
「……はい?」
「帰ります。ただ、置いていくものがあります」
俺は封筒をドアの下から差し入れた。
「先日の弔慰金ではありません。うちの社の書類です。あなたが訴訟でお使いになれるものです」
しばらく、何も聞こえなかった。
「……なんですか、これ」
「アルゴスの過去三年の死亡事故一覧と、その事故報告書の写しです。十七件あります」
ドアが、少しだけ開いた。
「そちらの代理人は、まだこれを持っていません。開示請求すれば、いずれ出ます。時間がかかるだけです」
「あなた、保険会社の人でしょう」
「はい」
「なんで、訴えてる相手にこんな物を渡すんですか」
「あなたが勝つと、私が困るからです」
佐和子の目が、初めてまっすぐ俺に向いた。
「……意味が分かりません」
「あなたが三億を取ると、その金は、アルゴスの団体契約から出ます。榛原さんの手元を通ります。私はそれを止めたい」
「主人の保険金です」
「そうです。だから、余計に通したくないんです」
ドアが、もう少し開いた。佐和子はサンダルのまま、廊下に出てきた。
「一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「あの人が言った言葉、覚えてますか」
俺は覚えていた。手帳に書いてある。ただ、彼女の口から言わせたくなかった。
「原資、と」
彼女が先に言った。
「四十日、いろんな人にいろんな事を言われました。お気の毒でした。強く生きてください。保険金で生活は立つでしょう。全部、聞き流せたんです」
彼女は自分の腕を掴んでいた。
「あの言葉だけ、流せなかった。主人が、還ってこない分の何割か、みたいに」
「私も流せませんでした」
「あなたは仕事でしょう」
「仕事です」
「……ずるい人ですね」
彼女は、そこで初めて笑った。笑ったというより、息が漏れただけだった。
「訴えは取り下げません」
「取り下げないでください」
「変な人」
佐和子は封筒を胸に抱えて、ドアの内側に戻った。閉める直前に、こちらを見た。
「あの人、潜る前の晩に、電話をくれたんです」
俺は動かなかった。
「なんでもない話でした。牛乳を買っておいてくれ、って。それだけ」
「その電話は、いつですか」
「……もう、いいです」
「三ツ谷さん」
「いいですって」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「わたし、あの晩の事は、まだ人に話したくないんです。話したら、あの人が本当に死んだ事になる気がして」
「分かりました」
「分かってないでしょう」
「分かっていません」
彼女は少し笑って、それから泣きそうな顔になって、どちらもやめた。
ドアが閉まった。今度は、鍵をかける音がしなかった。
帰りの電車で、六花は封筒の控えを膝に乗せていた。17件の一覧の写しだ。
「鵜飼さん」
「はい」
「これ、上から何番目ですか。二年前の」
「六件目です」
彼女は指で数えた。数え終えても、しばらく指を離さなかった。
俺はその欄を知っている。倉庫で並べた時から知っていた。二年前、五月。第五層。死亡一名。負傷三名。事故態様の欄は、他の16件と違う書き方をしていた。
他の16件は、記載要領の記入例をなぞっている。暗部、後方二十メートル、大型個体の接触。文がほとんど同じだ。この一件だけ、文が長い。崩落の規模、退避の順番、支給品の使用状況まで書いてある。書いた人間が、その場を思い出しながら書いた文だった。
戸倉が言った「本物の事故」だ。
「六花さん」
「はい」
「この一件は、他の十六件と書式が違います」
「……そうなんですか」
「あなたに聞きたい事があります」
電車が、鉄橋に入った。音が大きくなった。彼女の返事は聞こえなかった。
音が止んだ時、六花は窓の外を見ていた。
「鵜飼さん。今日は聞かないでくれます?」
「今日は、というのは」
「そっちが前に言ったんですよ。今日は聞きません、って」
彼女は膝の上の紙を、両手で押さえていた。指が白かった。
「わたしも、それ、言っていいですか」
俺は手帳を開かなかった。開くべきではないと思った。
「分かりました」
降りる駅までの十二分、俺たちは何も話さなかった。
支社に戻ると、机の上に付箋が貼ってあった。営業部長の字だった。
——アルゴス榛原氏より。月曜十時、示談の提案。支社長も同席。
その下に、もう一行あった。
——今度は、奥さんも代理人も連れて来ないそうです。




