第10話:十七件、全部お返しします
月曜の十時、応接室には六人いた。
榛原と、アルゴスの顧問弁護士。うちからは支社長、営業部長、法務課長、俺。六花は入れてもらえなかったので、ドアの外の椅子に座っている。
榛原は今日も上着を丁寧に掛けた。前回と同じ動作だった。この人は、同じ動作を同じ順番でやる。
「結論から申し上げます」
顧問弁護士が口を開いた。
「一億五千万でいかがでしょう」
支社長の肩が、目に見えて下がった。安心した時の下がり方だった。
「三億の請求に対して、半額。奥様の代理人にはこちらから話を通します。訴訟は取り下げの方向で調整できます」
「団体契約は」
営業部長が身を乗り出した。
「もちろん継続です。むしろ増やしたい。うちは来期、人数を六十まで増やします」
紙の上では、良い話だった。3億が1億5000万になり、訴訟が消え、4200万の保険料が6000万を超える。支社の今期は、それで終わる。数字だけを見れば、この部屋の全員が正解を選ぼうとしている。
「鵜飼くん」
支社長が、こちらを見ずに言った。
「君の意見は」
「反対です」
「理由を」
「一億五千万の内訳が説明できません」
顧問弁護士が眉を上げた。
「和解金に内訳は不要です」
「不要です。ですが、うちは保険会社です。保険金を払う根拠が要ります。根拠の無い金は、和解金であっても、うちの帳簿では損害保険金として出ていきます」
「そこは処理の問題でしょう」
「処理の問題です。処理とは、事実に名前をつける事です」
俺は鞄を膝に乗せた。中は重い。昨日の夜、六花が「持ちますよ」と言ったが断った。これは、俺が自分の手で置くべきものだった。
「支社長。三十分だけ、私に時間をください」
「……何をする気だ」
「数えます」
俺は鞄から、封筒を三つ出した。テーブルの上に、順番に置いた。
「一つ目」
一番厚い封筒を、榛原の前に押し出した。
「三ツ谷剛さんの件を含む、未払いの二件です。不払いの通知書。理由書は各件十二ページ。現場所見と、機構の統計と、死亡診断書の突合を全部載せています」
「二つ目」
二つ目の封筒を、その隣に置いた。
「過去三年に支払われた十五件について、保険金の返還請求です。うちが払った八件は当社から。他社が払った七件は、各社に資料を提供済みです。今朝、七社とも受領しました」
顧問弁護士の顔から、余裕が消えた。
「……他社に渡したんですか」
「渡しました。同じ書式で請求されている以上、うち一社の問題ではありません」
「そんな権限が、支社の一査定人に」
「ありません」
俺は認めた。
「ですので、資料を提供しました。判断は各社がします。今朝の時点で、四社が調査に入ると回答しています」
支社長が、口を半分開けたまま固まっていた。
「三つ目」
最後の封筒を置いた。薄い。一番薄い。
「保険金詐欺の告発状です。今日の午後、所轄に出します」
榛原は、封筒を三つとも見ていた。手は動かさなかった。
「……十七件、全部か」
「十七件、全部お返しします」
彼は、それを聞いて笑った。前と同じ笑い方だった。歯を見せて、声を出して。
「あんた、俺を殺人犯にしたいのか」
「していません。私は殺人を扱いません」
「じゃあ何だ」
「詐欺です。人が死んだ事故として金を受け取った。その事故は、要領どおりに書かれていた」
俺は四つ目の紙を出した。封筒には入れていない。記載要領の写しだった。
榛原の表情が、初めて崩れた。崩れ方が早かった。目が一度、大きく開いた。
「……戸倉か」
「出所は申し上げません」
「あの野郎」
「榛原さん」
俺は要領の二枚目を、彼のほうへ向けた。記入例の刷ってあるページだ。
「これを、どこで手に入れましたか」
「知らんね」
「五年前、封筒で届いた。差出人は無かった。あなたは捨てなかった」
「……」
「なぜ捨てなかったんですか」
榛原は、しばらく黙っていた。それから、椅子の背に体を預けた。腕の力が抜けていた。
「使えると思ったからだよ」
「使えると」
「読めば分かる。あれは、誰でも書ける。書けば通る。……こんな物を作れるのは、通す側の人間だ」
「通す側」
「保険屋か、機構だ。俺じゃない」
顧問弁護士が、榛原の肘を掴んだ。榛原はそれを振り払った。
「言っとくがな、鵜飼さん」
彼は身を乗り出した。今日、初めて声が大きくなった。
「俺は湧いた迷宮に入っただけだ。湧かせたのは俺じゃない」
俺は手帳を開いた。
「湧かせた、というのは」
「言葉の綾だ」
「二度目です。あなたが言葉の綾だとおっしゃったのは」
榛原は答えなかった。その代わり、上着を取った。掛けた時と同じ丁寧さで、腕を通した。
「うちの若いのが四十一人いる。あんたが正しいと、四十一人が仕事を失う」
「六十人に増やす予定でしたね」
彼の手が、一瞬止まった。
「増やす前で、良かったです」
榛原は何も言わずに出ていった。顧問弁護士が慌てて名刺を置いて、追いかけた。
留飲が下がる、という言い方がある。俺はその感覚を、あまり信じていない。
3億は止まった。15件は動き出した。告発状には俺の名前が入っている。ここまでは、確かに数えたとおりに進んだ。
それでも、三ツ谷剛は還ってこない。17人のうち、誰一人として還ってこない。査定人にできるのは、金の向きを変える事だけだ。向きを変えても、人は増えない。
俺は封筒の位置を、指で少しだけ揃えた。揃えると、多少ましな気分になる。
ドアが閉まると、営業部長が机を叩いた。
「あなた、何をしたか分かってるんですか」
「分かっています」
「来期の予算、どうするんですか」
「四千二百万が消えます」
「他人事みたいに言うな!」
支社長は、何も言わなかった。ずっと、三つの封筒を見ていた。それから、俺のほうを向いた。
「……君、告発状はもう書いたのか」
「書きました」
「印は」
「私の名前です。支社長の決裁は求めません。個人でも告発はできます」
支社長は、目を閉じた。長く閉じていた。
「馬鹿だな、君は」
「はい」
「その馬鹿を、うちの支社から出す事になる」
俺が答える前に、内線が鳴った。受付からだった。支社長が取って、二言だけ聞いて、受話器を置いた。顔から色が抜けていた。
「……本社の査定部長が、下に来ている」
廊下に出ると、六花が立ち上がるところだった。
エレベーターの表示が、四階で止まった。扉が開いて、黒いスーツの女が降りてきた。
背が高くはない。書類鞄も持っていない。手ぶらだった。手ぶらで来る人間は、その場で決める事を決めてきた人間だ。
蓮見冴子は、廊下の真ん中で立ち止まって、俺を見た。
「鵜飼くん。告発、まだ出してないわね」




