第11話:正しさは、今期いくらになるの
蓮見冴子は、応接室に入るなり窓を開けた。
「煙草の匂いがするわね」
「榛原さんが吸っていました」
「吸わせたの」
「止める理由がありませんでした」
「これからは止めなさい。相手に何かをさせた回数だけ、こちらの立場は下がるの」
彼女は座らなかった。窓際に立って、外を見ていた。
写真で見た顔より、小さい人だった。四十七だと聞いている。髪は短く、化粧は薄い。爪は切ってある。榛原と同じで、この人も手入れの行き届いた手をしていた。
「告発、取り下げなさい」
「出していません。まだ出していないだけです」
「出さないで、と言っているの」
「理由を伺えますか」
「三つあるわ」
彼女は指を折らなかった。折らずに、順番に言った。
「一つ。今この段階で刑事に振ると、捜査が始まった時点で民事の資料が全部止まる。あなたが集めた十五件は、返還請求の武器として使えなくなる。半年は動かない」
「……」
「二つ。他社七社に資料を配ったわね。あれは効いたけれど、副作用がある。うち一社でも先に和解すると、その一件は事故だったという扱いになる。あなたの十五件は、そこから崩れるの」
「三つ目は」
「あなたが、消える」
蓮見は初めてこちらを向いた。
「支社の一査定人が個人で告発すれば、社は必ず切る。切られたあと、この案件を誰が続けるの」
俺は答えなかった。答えが無いからだ。
「正しさは、今期いくらになるの」
彼女は言った。声は静かだった。責めてもいなかった。
「金額に換算しろという話ですか」
「換算しろとは言っていない。換算されるという話をしているの。あなたが換算しなくても、他の誰かが換算する。だったら、換算の仕方はこちらで決めるべきでしょう」
俺は鞄から、八枚の写しを出した。倉庫から持ってきた原本の写しだ。テーブルに置いた。決裁欄が、上を向いていた。
「部長。この八件を通したのは、あなたです」
蓮見は写しを見た。動かなかった。目だけが、一枚目から八枚目まで動いた。
「そうよ」
「否定されないんですね」
「事実だもの。私が通した」
「なぜですか」
「早かったからよ」
彼女は写しの一枚を指で押さえた。
「請求から支払いまでの日数。八件とも、平均十一日。うちの平均は三十四日。書類が完璧で、疑義が無くて、担当が押して、課長が押した。私は最後に見て、通した」
「疑義は無かったんですか」
「無かったわ」
「発生日欄が空欄です。八件とも」
「空欄は疑義じゃない。不備よ」
「不備が八件続いたら、それは運用です」
蓮見の目が、初めて動いた。細くなった、と言うほどでもない。ただ、俺のほうへ焦点が合った。
「……どこで覚えたの、その言い方」
「私が考えました」
「そう」
彼女は写しから手を離した。
「よく出来ているわ。二十年前の私も、同じ事を言った」
俺は手帳を開いた。B、と書いてある頁がある。まだ何も書いていない頁だ。
「二十年前に、何を言ったんですか」
「言っても、あなたには使えない話よ」
「使えるかどうかは、私が決めます」
「生意気ね」
蓮見は、そこで初めて笑った。笑ったのは一瞬だった。
「もう一つ、聞いていいかしら」
「どうぞ」
「これ、どこで手に入れたの」
彼女が指したのは、テーブルの隅に置いていた記載要領の写しだった。俺はまだ、一言も説明していない。
「ご存じなんですか」
蓮見は答えなかった。答えなかったが、写しを取り上げて、二枚目をめくって、三枚目の右下を見た。迷いのない動きだった。どこに何があるか知っている人間の手つきだった。俺は、その手つきを見ていた。
「部長。これを、以前ご覧になった事がありますね」
「……様式には、番号が振られるものなの」
「質問に答えていただけますか」
「答えたわ。今のが答えよ」
彼女は写しを置いた。置いた時、三枚目が裏返っていた。
その時、ドアがノックされた。六花が顔を出した。
「鵜飼さん。下に、戸倉さんが」
蓮見の視線が、六花に移った。移って、止まった。
「日野六花さん」
「……はい」
「二年前まで、アルゴスの所属よね」
六花の顔が、白くなった。ドアを掴んだ指に、力が入るのが見えた。
「調べたんですか」
「調べていないわ。決裁したの」
蓮見は、俺のほうを見なかった。六花だけを見ていた。
「二年前の五月。第五層の崩落。死亡一名、負傷三名。あの案件の労災の付帯分は、私が通した。受取人の欄に、あなたの名前があった」
「……」
「読んだわ。事故報告書も、全部」
六花は何も言わなかった。俺も言えなかった。
二年前の五月。第五層。死亡一名、負傷三名。俺は昨日、電車の中でその欄を指した。彼女は今日は聞かないでくれと言った。俺は分かりましたと答えた。
その一件の書類を、この人は二年前に読んでいる。読んで、通している。順番が、全部逆だった。俺は今になって知り、この人は最初から知っていた。
蓮見は鞄を持たない手を、軽く上げた。
「今日はここまでにしましょう。鵜飼くん、告発は明日まで待ちなさい。明日、私が本社で答えを持ってくる」
「答え、とは」
「あなたが欲しがっているものよ」
彼女は出ていった。窓は開けたままだった。
俺は下へ降りた。戸倉光晴は、支社の駐車場の隅に立っていた。前より痩せて見えた。
「証言は、しない」
開口一番、それだった。
「昨日、うちの若いのが二人、俺の家の前にいた。何もしてこない。ただ、いた」
「分かりました」
「分かってねえよ。あんた、俺に死ねって言ってるんだ」
「言っていません。証言しなくても、資料は動きます」
「……なら、なんで来た」
「あなたが来たんです」
戸倉は、そこで黙った。それから、ポケットから紙を出した。喫茶店で握っていた、あの紙だった。畳んだ跡だらけの、小さな紙。彼はそれをようやく開いた。
領収書だった。市販の、どこにでもある形式。日付は二年半前。金額は三万円。但し書きの欄に、手書きでこう書いてあった。
——貸した分。返さなくていい。三ツ谷
「三ツ谷は、俺が腰をやって現場を外された年に、これを寄越した」
戸倉の声が、震えていた。
「返そうとしたら、受け取らねえんだ。あいつ、笑って。……で、俺は、あいつの死亡報告書の下書きを、要領どおりに書いた」
彼は領収書を、俺のほうへ差し出した。
「使ってくれ」
「これは、証拠になりません」
「知ってる」
「では、なぜ」
「あんたが数えてるからだ」
戸倉は俺の手に、それを押しつけた。
「十七件、全部数えたんだろう。だったら、一件くらい、金額じゃないもんが混じっててもいいだろうが」
その夜、俺は蓮見に電話をかけた。出なかった。
代わりに、翌朝の始発前、支社の端末に一件のメールが届いた。差出人は蓮見冴子。件名は無い。添付が一枚だけ。うちの再保険契約の一覧だった。
アルゴスを含む探索者団体契約の再保険は、七年前から一社に集約されている。引受先の名前は、迷宮災害共済機構。
なぜ部長は、これを俺に送ってきたのか。なぜ、これほど支払いを急がせていた人が。
蓮見の答えは、明日、本社から届きます。届いた形は、鵜飼が想像していたものとは違いました。




