第12話:発生日が、契約日より後なんです
蓮見冴子は、本当に翌日来た。今度は書類鞄を持っていた。
「答えを持ってきたわ」
彼女は会議室のテーブルに、端末を一台置いた。
「契約管理の閲覧権限。支社の査定人には出ないものよ。三十日間、あなたの職員番号で見られるようにした」
「なぜですか」
「見なさい。話はそれから」
「部長」
「質問は一日に一つにして。私にも予定があるの」
彼女は昨日と同じで、座らなかった。
「昨夜のメールの再保険の件は、ご説明いただけますか」
「それが今日の一つ目ね」
「はい」
「七年前から、うちの探索者団体契約の再保険は、迷宮災害共済機構が引き受けている。うちだけじゃないわ。国内八社のうち、六社がそう」
「つまり」
「つまり、あなたが十七件を返せと言った時、返る先はアルゴスだけれど、出た金の八割は、もう機構が負担している」
俺は少し考えた。考えても、結論はひとつしか出なかった。
「うちが払っても、うちはほとんど痛まない」
「そうよ」
「だから、査定が甘くなる」
「甘くなるとは言っていないわ」
「言っていません。私が言いました」
蓮見は何も言わなかった。否定もしなかった。
それが、この人の答え方なのだと分かってきた。この人は嘘をつかない。ただ、自分から言わない事が多すぎる。
その日から三日、俺は契約管理の履歴を読んだ。六花は現場の写真の整理をしながら、時々こちらを見た。
「鵜飼さん、寝てます?」
「寝ています」
「どこで」
「椅子です」
「それ、寝てるって言わないですよ」
三日目の朝、俺は一件見つけた。
アルゴスの団体契約には、迷宮を指定して掛ける特約がある。特定の層で活動する期間だけ、保障を上乗せする仕組みだ。指定した迷宮の名前と、対象期間が記録される。
〈鴉ノ巣〉の特約は、四月九日に締結されていた。
機構の公表による〈鴉ノ巣〉の発生日は、四月十二日。
支社の台帳には、四月十一日と入っている。以前に見つけた、一日のずれだ。どちらを取っても、四月九日より後だった。
俺は数字を三度読み直した。読み直しても、順番は変わらなかった。
「六花さん」
「はい」
「発生日が、契約日より後なんです」
彼女は写真を持ったまま、こちらを見た。
「……えっと。まだ無い迷宮に、保険を掛けてたって事ですか」
「そうなります」
「そんな事、できるんですか」
「できません」
俺は端末の画面を回して、彼女に見せた。
「ですので、これは事務処理の問題だと思います」
「思います?」
「思います」
嘘ではなかった。この時点では、本当にそう思っていた。
契約課に降りて聞いた。担当は、俺の顔を見て溜息をついた。
「遡及処理ですよ、たぶん」
「遡及」
「月次の一括処理で、締結日がその月の頭に寄る事があるんです。システムの都合で。四月九日って、たぶん実際は四月十五日とかです」
「よくある事ですか」
「よくはないですけど、たまに。大口だと、締結が先に口頭で決まって、入力が後になったりするので」
「なるほど」
俺はそう言った。言った時、自分でも納得していた。そういう事は、実際にある。俺は五年で何度も見ている。日付がずれている書類の九割は、悪意ではなく事務だ。
だから、俺はこの一件を、その日いったん脇に置いた。置いた事を、後で悔やむ事になる。
念のため、機構の相談窓口にも電話をした。
「迷宮の発生日は、どうやって決めているんですか」
「観測です。地下の反応が閾値を超えた時刻を、発生時刻としています」
「閾値を超えたと分かるのは、超えたあとですね」
「そうなります」
「では、超える前に予兆はありますか」
少し間があった。
「……予兆の研究は、当機構では行っておりません」
「行っていない、というのは、無いという意味ですか」
「所掌ではない、という意味です」
俺は礼を言って、電話を切った。所掌ではない、という言い方を、俺は仕事でよく使う。答えたくない時に使う。
脇に置いたまま、俺は残りの履歴を読み続けた。三日が四日になった。
四日目の夜、六花が段ボールを一箱持ってきた。中身は空だった。
「これ、椅子の横に置いてください。足を乗せると、少し寝られます」
「探索者の知恵ですか」
「野営の知恵です。……で、何を探してるんですか」
「同じ形を探しています」
「同じ形」
「〈鴉ノ巣〉が事務処理なら、他にも同じずれがあるはずです。事務のミスは、一件だけでは起きません」
六花は段ボールを置いて、俺の隣に椅子を持ってきた。
「じゃあ、わたしが日付読みます。鵜飼さんが照合してください」
「読めますか」
「日付は読めます。約款は読めないですけど」
二人で、五時間かかった。
過去五年、うちが引き受けた迷宮指定特約は、全部で412件あった。そのうち、締結日が機構公表の発生日より前になっているものが——
3件だった。
「三件」
六花が、声を落とした。
「四百十二分の三です。少ないですね」
「少なすぎます」
「少なすぎるって、いい事じゃないんですか」
「事務のミスなら、もっと多いはずです」
俺は椅子の背に体を預けた。蛍光灯が一本、切れかけていた。
「四百十二件のうち、遡及処理が入った件は五十七件あります。契約課の言うとおり、日付は動いています」
「はい」
「動いた五十七件のうち、発生日を越えて前に出たのは、ゼロです」
六花が、俺のほうを向いた。
「……じゃあ、この三件は」
「遡及処理が入っていません。ログが無いんです。最初から、その日付で入力されています」
しばらく、誰も何も言わなかった。空調が止まって、また動いた。
「鵜飼さん。それ、どういう意味ですか」
「分かりません」
「分からないって」
「分かりません。ですが、書けます」
俺は手帳を開いた。書いた文は一行だった。
——迷宮が湧く前に、その迷宮に保険が掛けられている。3件。
「あの」
六花が、恐る恐るという顔で聞いた。
「迷宮って、湧く前に分かるものなんですか」
「分かりません」
「分かったら、どうなるんですか」
俺は答えなかった。答えると、今夜は眠れなくなると思った。
3件の内訳を最後に確認した。1件は〈鴉ノ巣〉。契約者はアルゴス。残りの2件は、別のクランだった。
名前を見て、俺は手を止めた。どちらも聞いた事がある。業界誌に載る規模のクランだ。榛原とは、何の関係も無い。
関係が無い、という事の意味を、俺はしばらく考えた。
榛原篤は、要領どおりに書いた。それは分かった。だが、要領は事故の書き方を教えるだけだ。迷宮がいつ湧くかまでは教えない。
湧く前に契約を掛けられるのは、湧く日を知っている人間だけだ。そして、その3件のうち2件には、榛原がいない。
俺は端末の電源を落とした。落としても、画面の残像が少し残った。




