第8話:支払い済みの案件は、開けられません
記載要領の写しを添えて、俺は二度目の稟議を上げた。今度は三十分もかからなかった。十五分で呼ばれて、五分で終わった。
「支払い済みの案件は、開けられません」
支社長は、今度は稟議書を裏返さなかった。裏返す気力も無いという顔だった。
「これは私の判断じゃない。社の判断だ」
「社の、というのは誰ですか」
「そういう聞き方をするな」
「聞き方を変えます。この判断を書面にしていただけますか」
支社長の目が、初めて泳いだ。
「……なんのために」
「私が三億を止めた理由は、書面で残しています。開けない理由も、同じ形で残るべきです」
「脅してるのか」
「揃えているだけです」
支社長は、しばらく天井を見ていた。それから、低い声で言った。
「鵜飼くん。君は、正しい」
「はい」
「正しいから、誰も味方しないんだ。分かるか」
「分かります」
「分かってて、やるのか」
「はい」
法務課長のところへ行った。彼は俺の顔を見るなり、コーヒーを二つ淹れた。
「時効です」
座る前に、それを言われた。
「支払いから二年。八件のうち、五件はもう過ぎてます」
「起算点はいつですか」
「支払った日でしょう」
「約款のどこにそう書いてありますか」
彼はコーヒーを置いて、俺を見た。それから、笑った。笑うというより、諦めた顔だった。
「……見たんですね」
「見ました」
俺は約款の冊子を開いた。付箋は貼っていない。貼らなくても、場所は覚えている。
「第二十三条。詐欺その他の不正の手段により保険金が支払われた場合、当会社は支払った保険金の返還を請求する事ができる」
「知ってますよ、それくらい」
「同条の第三項です。前項の請求権は、当会社が当該事実を知った時から二年で時効となる」
法務課長のペンが、机の上で止まった。
「……知った時から」
「私が記載要領を受け取ったのは、一昨日の夜です」
「……」
「起算していません。まだ一日目です」
彼は椅子の背に体を預けて、天井を見た。この支社の人間は、困ると全員が天井を見る。
「鵜飼さん。あなた、査定より弁護士のほうが向いてますよ」
「向いていません。弁護士は勝ち負けを扱います」
「じゃああなたは何を扱うんですか」
「合っているか、合っていないかです」
法務課長は、しばらく黙っていた。それから、机の引き出しから一枚の紙を出した。
「返還請求の予備的な申立て、という形なら通せます。訴訟の中でやる。三ツ谷の裁判は、もう始まってるんだから」
「同じ土俵に乗せるという事ですか」
「そうです。十五件を独立で開けるのは無理でも、三ツ谷の一件に十五件を証拠として引っ張るのは、できる」
俺は紙を受け取った。彼の字は丁寧だった。
「なぜ、手伝ってくれるんですか」
「手伝ってません。負ける裁判の準備をしてるだけです」
「勝ちますよ」
「そういう事を平気で言うから、みんな困るんですよ、鵜飼さん」
その夜、俺と六花は支社の地下倉庫にいた。
紙の原本は、支社の書庫に五年ぶんだけ残っている。それより古い分は本社の倉庫に送られ、その先はどこかの外部倉庫に行く。行った先から取り寄せるには、部長決裁がいる。つまり、ここにある五年ぶんが、いま俺が触れる全部だった。
「うわ、埃」
六花がくしゃみをした。段ボールが、天井近くまで積んである。
「鵜飼さん、これ何箱あるんですか」
「四百です」
「四百」
「私たちが見るのは、そのうち十二箱です」
俺は箱の番号を読み上げた。六花が脚立に上って、下ろす。彼女は箱を投げるように扱ったが、一度も落とさなかった。
「探索者の頃も、こういう事してました」
「荷運びですか」
「そう。強い人は前に出て、弱い人は荷物を持つんです。わたし、ずっと荷物のほうでした」
「Bランクでしたよね」
「Bって、下から数えたほうが早いんですよ」
六花は箱を下ろしながら、ふいに手を止めた。
「鵜飼さん。あの見本、どうするんですか」
「記載要領ですか」
「あれ、出したら戸倉さんが死にますよ」
「死にますか」
「死にはしないですけど。……アルゴス、そういうとこ、ちゃんとしてます」
「ちゃんとしている、というのは」
「裏切った人間の面倒を、最後まで見るって意味です」
彼女の言い方は、噂を伝える言い方ではなかった。
「なので、出す時は一気に出してください。ちょろちょろ出すのがいちばん危ないです」
「分かりました」
「返事、早い」
「今のは、本当に分かりました」
三時間かかった。埃で喉が痛くなった頃、俺たちは15件の原本を床に並べ終えた。8件はうちが払った分。7件は他社に渡した写しの控えだ。
各葉の右下に、決裁欄がある。三つの枠。担当、課長、部長。
俺は担当の欄から見ていった。8件とも、担当の名前は違う。当時の査定人がそれぞれ書いている。課長の欄も、違う。三人いた。
部長の欄だけが、8件とも同じだった。
「同じ人ですね」
六花が横から覗き込んだ。
「印、潰れてて読めないですけど」
「読めます」
「読めるんですか」
「これは印ではありません。署名です」
部長欄だけ、朱の印ではなく、黒のペンで名前が書かれていた。8件とも同じ筆跡で、同じ角度で、同じ大きさだった。几帳面な字だった。丁寧すぎるほど丁寧だった。
蓮見冴子。
俺は、その字を知っていた。
入社二年目の冬、初めて死亡案件を任された時、俺は支払いの可否を三日決められなかった。上げた稟議は差し戻された。差し戻しの余白に、赤で一行だけ書かれていた。
——迷って書けない事は、まだ調べていない事です。
筆跡は、これだった。
査定第二課の棚に、社内向けの手引きが一冊ある。表紙も奥付も無い、コピー綴じの冊子だ。俺が五年間、何度も開いてきた。書いたのが誰かは知らなかった。ただ、教わった事のほとんどは、その冊子から来ている。
ただ、発生日から見る癖だけは、あの冊子に無い。あれは、誰にも教わっていない。
六花が、俺の顔を見た。
「……鵜飼さんの、上司ですよね」
「そうです」
「昨日、電話で話してた人ですよね」
「そうです」
俺は八枚を順番に重ね直した。手が、思ったより丁寧に動いた。
3億を止めろと言ったのは、この人だ。現場調査を通せと言ったのも、この人だ。照会は部の仕事だから私に言いなさいと言ったのも、この人だ。
そして、15件のうち8件を通したのも、この人だった。
「鵜飼さん」
「はい」
「これ、報告するんですか。部長に」
「します」
「え」
「報告しない理由がありません」
六花は口を開けて、閉じた。それから、髪についた埃を払った。
「あんた、ほんとに死にますよ、そのうち」
「非戦闘員なので、そうかもしれません」
俺は倉庫の照明を消した。暗くなる直前、床に残った八枚の署名が、一瞬だけ揃って見えた。




