第7話:書式が同じなんですよ、全部
戸倉光晴は、二十分近く何も言わなかった。
支社の向かいにある喫茶店は、十一時までやっている。奥の席に座って、彼はコーヒーを二口飲んだ。それから、カップを持ったまま止まった。
俺は待った。待つのは仕事のうちだ。急かして出てくる話は、たいてい嘘か、相手が用意してきた話のどちらかになる。
「あんた、俺を疑ってるでしょう」
最初の言葉が、それだった。
「疑ってはいません」
「疑えよ」
「疑うのは、あなたが何か言ったあとです。今のところ、あなたは何も言っていません」
戸倉は笑った。笑い方が、榛原に少し似ていた。長く同じ場所にいた人間は、笑い方が似る。
「四十一だ」
「はい」
「四十一で、他に行けるところがない。探索者を二十年やって、腰をやって、事務に回されて、それでも辞めなかった」
「はい」
「そういう人間が、どういう時に自分の会社を売ると思う」
「分かりません」
「分からんのか」
「分かりません。私は人の顔が読めないので」
戸倉はカップを置いた。カップの底が、思ったより大きな音を立てた。
「本当に、不幸な——」
言いかけて、彼は止まった。自分の口を、手で押さえた。押さえてから、押さえた事に気づいたようだった。
「……出るんだよ、これが。もう」
「その言葉は、決まっているんですか」
戸倉は答えなかった。俺は手帳を開いた。
「五月二十二日、御社の若い方が、第四層の現場で私にこう言いました。本当に、不幸な事故でした。惜しい男を亡くしました」
「……」
「同じ日、別の方が同じ言葉を、同じ順番で言いました。翌日、榛原さんは使いませんでした。使わなかったのは、榛原さんだけです」
戸倉の肩が、少し落ちた。
「マスターが言うんだよ。遺族と、保険屋の前では、それを言えって」
「一字一句、ですか」
「一字一句だ。順番も変えるなと」
俺は手帳に書いた。書きながら、指の先が冷たくなっているのが分かった。台本がある。台本があるという事は、書いた人間がいる。
「日付の話をしていいですか」
「日付?」
「事故報告書の日付欄です。『1』の頭に、小さな撥ねがある。十七件、全部同じです」
戸倉は、しばらく黙っていた。それから、自分の右手を見た。
「俺だ」
「あなたが書いた」
「下書きは全部俺が書いてる。清書はそれぞれの担当がやるが、下書きは俺だ。二十年、そうしてきた」
「他社に出した七件も、ですか」
「……ああ」
俺は背筋を伸ばした。ここからが本題だった。
「では、あなたが作ったんですか。あの書式を」
「違う」
即答だった。
「違う。俺は書き写してるだけだ」
「何を」
戸倉は、握っていた紙を出さなかった。代わりに、鞄からクリアファイルを出した。中には、白い紙が三枚入っていた。彼はそれを、テーブルの上に置いた。俺のほうへ、指で押した。
一枚目は、白紙の様式だった。事故報告書。項目の並びが、床に並べた17件と同じだった。
二枚目には、記入例が刷ってあった。すべての欄が、手書きではなく活字で埋まっている。日付。場所。事故の態様。目撃者。負傷部位。
三枚目の表題を読んで、俺は手を止めた。
——事故報告書 記載要領(探索者傷害・死亡事案用)
「記載要領」
「そう呼ばれてる」
「これは、どこから」
「届いたんだ」
戸倉は初めて、こちらを正面から見た。
「五年くらい前だ。事務所に、封筒で。差出人は無い。中身はそれだけだ」
「捨てなかったんですか」
「捨てるだろ、普通は。……マスターが、取っといたんだ」
俺は二枚目を、明かりに近づけた。記入例の「事故の態様」の欄には、こう刷られていた。
——第○層において、大型個体の接触により被災。現場は照明間の暗部。目撃者は後方二十メートル。
二十メートル。あの若い男が、現場で言った距離と同じだった。
「戸倉さん」
「なんだ」
「この記入例のとおりに書くと、どうなりますか」
「……通る」
「何が」
「保険が。全部だ」
戸倉は両手で顔を擦った。
「暗部で、目撃者は遠くて、死体は大型個体にやられた形。誰も見てない。誰も確かめられない。それで通る。二十年やってて、これほど楽な書き方は無かった」
俺は二枚目の下のほうに、もう一行あるのを見つけた。備考の記入例だった。
——遺族対応は書面を用いず、口頭にて統一の説明を行う事。
「これですね」
「……そうだ」
「不幸な事故でした、というのは、ここから来ていますか」
「文言まで書いてあるわけじゃない。ただ、揃えろとは書いてある」
「揃えたのは、榛原さんですか」
「マスターは、そういうのが得意なんだ」
戸倉は、少し笑った。笑いたくて笑ったのではなさそうだった。
「二年前にも一件あった。若いのが三人助けて、一人だけ助けられなかった。あれは本物の事故だ。断言できる」
「本物の、というのは」
「あの時は、報告書を書き直させられなかった。俺が書いた下書きが、そのまま通った。……あの一件だけだ」
「なぜ、その一件だけ」
「知らん。マスターが、あれには触るなと言った」
俺は手帳に、二年前、と書いた。それ以上は書けなかった。書ける材料がまだ無い。
「榛原さんは、いつからこれを使いましたか」
「五年前からだ。使い始めて、事故が増えた」
「事故が増えた、というのは」
「……順番が逆だな」
戸倉は、そこで初めて声を落とした。
「増えたんじゃない。増やせるようになったんだ」
俺は手帳を閉じなかった。閉じるのは、いつも最後だ。
「なぜ、今なんですか」
「あんたが十七件と言ったからだ」
「私は昨日、榛原さんの前でそう言いました。あなたはいませんでしたね」
「マスターが夜に電話してきた。あの保険屋は十七件全部を数えてる、と」
戸倉は、握っていた紙をようやくテーブルに置いた。畳んだ跡だらけの、小さな紙だった。開かなかった。開かないまま、指で押さえていた。
「三ツ谷に、借りがあってな」
「金銭ですか」
「三万」
彼はそれ以上、言わなかった。俺も聞かなかった。今日は、その日ではない。
支社に戻ったのは、日付が変わってからだった。誰もいない四階で、俺は床に並べたままの17件の上に、記載要領の三枚を置いた。
枠が、ぴたりと重なった。
17件は、榛原が起こした事故ではなかった。17件は、誰かが配った書き方どおりに、書かれたものだった。
俺は座って、天井を見上げた。
この五年、俺は何十件の事故報告書を読んできたのか。読んで、通してきた。書式が整っていて、項目が埋まっていて、矛盾が無い書類を、俺は何度も「問題なし」と書いた。
整っている書類は、正しい書類ではない。整っている書類は、整え方を知っている人間が作った書類だ。その事に、俺は五年かかった。
三枚目を裏返した。右下の隅に、小さな数字が刷ってある。印刷の管理番号にしては、桁が多かった。
封筒で届いたと戸倉は言った。差出人は無かったと言った。だが、こういう物を作れる人間は、そう多くない。様式を作れるのは、様式を決める側にいる人間だけだ。
これを配ったのは、誰だ。
榛原の話は、ここで終わりません。17件のうち15件は、もう払われています。




