第6話:私は、いつも発生日から見ます
翌朝いちばんに、俺は再調査の稟議を上げた。
対象は、うちが既に支払った8件。理由の欄には「請求内容に虚偽の疑い」とだけ書いた。書ける事だけを書くと、たいてい一行で済む。
三十分後に呼ばれた。
「無理だ」
支社長は稟議書を裏返しにして、机に置いた。裏返す必要のない紙だった。
「終わった案件は開けない。決裁は下りてる。金は出てる。今さら虚偽だと言えば、虚偽を見抜けなかったのはうちだという話になる」
「なります」
「分かってて上げたのか」
「はい」
「君は、自分の会社を訴えたいのか」
「訴えたいのではありません。数えたいだけです」
支社長は額を押さえた。
「三ツ谷の件だけにしろ。三億を止めた。それで十分だろう」
「十分ではありません」
「なぜ」
「三ツ谷さんの件を止めても、十七件のうち一件が止まっただけです」
俺は稟議書を表に戻した。
「止めた一件は、たまたま私が担当だっただけです。次に同じ事が起きた時、担当が私でなければ通ります」
支社長は答えなかった。答えないのが答えだった。
法務課長のところにも行った。彼のほうが、話は早かった。
「詐欺なら、支払いは取り消せます。返還請求もできる」
「条件は」
「立証です。それも、こっちが」
彼は指を三本立てた。
「事故ではなかった事。請求者が知っていた事。うちがそれを知らずに払った事。三つ揃わないと、法廷では一歩も動きません」
「三つ目は簡単です」
「二つ目が地獄です。十五件ぶん、全部やるんですか」
「やります」
「……鵜飼さん。人にできる仕事の量って、あるんですよ」
昼前に、本社から電話が入った。内線ではなく、直通だった。
「蓮見です。三ツ谷の件、進んでる?」
「現場調査は終わりました。所見は今日中に上げます」
「結論は」
「魔物起因ではありません」
「根拠が三年分の統計だけなら、まだ弱いわね」
「弱いです。補強します」
声の調子が変わらない人だった。褒めもしないし、責めもしない。数字を受け取る時の、査定人の声だった。
「部長。ひとつ、お願いがあります」
「どうぞ」
「過去の支払済み案件の、決裁者を照会したいのですが。支社の権限では名前が出ません」
一拍あった。長くはなかった。
「照会は部の仕事よ。必要なら、私に言いなさい」
「今、申し上げました」
「案件番号を送って。見ておく」
「ありがとうございます」
「鵜飼くん」
切る直前に、彼女は言った。
「三億は止めていいの。ただ、止めた理由を、あなた以外の人間が読める形で残しなさい。あなたがいなくなったら消える正しさは、正しさじゃないわ」
その日の午後、三ツ谷佐和子の代理人から電話が入った。
「訴訟は取り下げません」
初めて話す弁護士だった。声が若かった。
「昨日、依頼人がそちらに伺った件は、こちらの了解を得ていません。クラン側の主導です。抗議は入れました」
「分かりました」
「それと、遺品の件です。携帯電話が戻っていない。これは訴訟とは別に、警察へ相談します」
「そうしてください」
電話の向こうで、一拍あった。
「……止めないんですね」
「止める理由がありません」
「あなた、保険会社の人ですよね」
「保険会社の人間です。だから、返っていないものが一つあると聞いたら、そこを見ます」
夕方、六花が現場調査の写真を持ってきた。プリントで百枚以上ある。彼女はデータで送ってこない。紙で並べたほうが早いと言う。この点だけは、俺と気が合う。
「鵜飼さん、あれ聞いていいですか」
「どれですか」
「一昨日から気になってるんですけど。……なんで発生日から見るんですか」
俺は写真を並べる手を止めた。三度目の質問だった。この人は、答えるまで三回聞く。三回目に答えないなら、四回目は無いだろうと思った。
「私は、いつも発生日から見ます」
「知ってます。理由を聞いてます」
「迷宮は、生まれた日の分かる災害です」
六花が、写真を持ったまま俺を見た。
「地震も台風も、起きた瞬間しか分かりません。迷宮だけは、いつ湧いたかが分かる。機構が公表します。日付が振られる」
「はい」
「日付が振られているのに、事故報告書の発生日欄は、たいてい空欄です」
俺は写真の一枚を指で押さえた。〈鴉ノ巣〉の入口が写っている。
「分かるはずのものが分からないままになっている時、誰かがそこを見ないでいる。見ないでいるという事は、見ると困る人がいるという事です」
六花はしばらく黙っていた。
「……それ、答えになってます?」
「なっていません」
「ですよね」
彼女は写真を机に置いた。
「今のって、なんで欄を見るかの説明でしょ。なんで鵜飼さんが見るかの説明じゃないです」
俺は答えなかった。窓の外で、電光掲示がまた新規迷宮の発生を流していた。今月に入って、四つ目だ。
「まあ、いいです」
六花はあっさり引いた。引き方が上手い人だと思った。
「その代わり、手伝いますよ。何を並べたらいいですか」
「十七件を、発生日の順に並べます」
「事故の日じゃなくて?」
「迷宮の発生日です」
二人で床に並べた。事故報告書の写しを、迷宮ごとに縦に置く。
床に並べるのは、俺の癖だ。画面では二件を同時に見られない。三件になると、もう順番を覚えていられなくなる。紙は動かないし、置いた位置がそのまま記憶の代わりになる。
六花は文句を言わなかった。彼女も現場の図を床に描く人間だ。立って見下ろすと、見えるものが変わる事を知っている。
17件は、11の迷宮で起きていた。同じ迷宮で二件、三件というものもある。並べ終えるのに、二時間かかった。並べ終えて、俺は座り込んだまま動かなかった。
「鵜飼さん」
「はい」
「これ、全部……」
「新層です」
11の迷宮は、すべて発生から半年以内だった。半年を過ぎた迷宮での死亡は、17件のうち一件もない。
「新しい迷宮って、そんなに危ないんですか」
「逆です」
俺は六花を見た。
「新層は浅い。魔物が薄い。道が単純です。あなたが一昨日、そう言いました」
「……言いました」
「危なくない場所で、十七人死んでいます」
六花の顔から、表情が抜けた。現場の人間の顔になった。
「鵜飼さん。これ、変ですよ」
「変です」
「変ってレベルじゃないです」
俺は床に並んだ紙を、端から見ていった。書式の枠。項目の並び。フォント。余白の取り方。17件のうち、うちが払った8件と、他社が払った7件と、まだ払っていない2件。会社が違えば、報告書の様式も違う。違うはずだった。
保険会社ごとに、様式は違う。項目の順番も、余白の取り方も、罫線の太さも違う。それが業界の当たり前で、そのせいで査定人は毎回、目の置き場を変えながら書類を読む事になる。
この17件は、目の置き場を変えなくても読めた。
枠の位置が、全部同じだった。
夜の十時を過ぎていた。俺は支社の裏口を出て、自動販売機の前で立ち止まった。立ち止まったのは、喉が渇いたからではない。街灯の下に、男が一人立っていた。
顔は知っている。榛原の隣で、ずっと黙っていた男だ。アルゴス副官、戸倉光晴。
「……鵜飼さん、ですね」
彼は、両手で何かを握っていた。紙のようだった。何度も畳み直した跡があった。




