第5話:原資、とおっしゃいましたね
佐和子は、俺を見なかった。
喪服ではなかった。灰色のカーディガンに、紺のスカート。四十日ぶりに、着るものを選ぶ気力が戻ったのだろう。それでも髪は結んでいなかったし、鞄は膝の上に抱えたままだった。
榛原は彼女の斜め後ろに座っていた。付き添いの位置ではない。連れてきた人間の位置だった。
テーブルの上に、封筒がひとつ置かれている。榛原が両手でそれを押し出した。
「クランから、弔慰金です。保険とは別に、うちの規約で出せる分を」
「いくらですか」
「五百万」
俺は封筒を見て、佐和子を見た。彼女は膝の上で手を組んでいる。爪が、手の甲に食い込んでいた。
「三ツ谷さん。ご自分の意思で、こちらに来られましたか」
「……はい」
「昨日、代理人の先生には相談されましたか」
佐和子の指が、わずかに動いた。答えなかった。
「鵜飼さん」榛原が笑顔のまま割り込んだ。「奥さんを疑うのはやめてもらえますか」
「疑っていません。手続きを確認しています」
「じゃあ、こう言いましょう。奥さんは納得されたんです。事故だと」
「三ツ谷さん」
俺は佐和子に向き直った。
「私は、まだ支払いません。今日、あなたが何とおっしゃっても、この場では判を押しません。それでも、来てくださった理由があるはずです」
佐和子が、初めて顔を上げた。目が赤かった。泣いた後ではなく、眠っていない目だった。
「……主人の、携帯を返してもらえないんです」
榛原の笑顔が、一瞬だけ止まった。
「遺品は、クランがまとめて預かる規約でして。整理がついたら順に」
「四十日です」
佐和子の声が、初めて硬くなった。
「主人が死んで、四十日。財布も、指輪も返ってきました。携帯だけ、まだです」
「探しています」
「探すって、どこをですか」
部屋の温度が下がった。榛原は椅子に深く座り直して、指を組んだ。
「奥さん。落ち着いて」
「落ち着いています」
「あのね」
榛原は、その時、ため息をついた。人前でついていいため息ではなかった。
「潜る以上、何割かは還ってこないんですよ。それは原資です」
佐和子の顔から、色が抜けた。
「……げんし」
「言葉が悪かった。ですが、事実です。うちは十年で百人以上を潜らせている。全員無事で上がってくる商売なら、誰も苦労しません」
佐和子は立ち上がった。何も言わずに、封筒に触れもせず、応接室を出ていった。ドアが閉まる音は、静かだった。
榛原は舌打ちをしなかった。溜息もつき直さなかった。ただ、封筒を自分の鞄に戻した。手つきが事務的だった。
「原資、とおっしゃいましたね」
「……ああ」
「今、この部屋で。三ツ谷剛さんの事を、原資と」
「言葉の綾です」
「私は言葉を扱う仕事ではありません。数字を扱います。なので、数えます」
俺はファイルを開いた。昨夜、印刷したものだ。
紙にしたのには理由がある。端末の画面は、相手が横から覗いても他人の道具に見える。紙は、相手の側にも置ける。置いた瞬間から、それは共有された事実になる。
「アルゴスの、過去三年の請求履歴です。死亡事故、十七件」
榛原の目が動いた。
「三年で十七人。同業のS級クランの平均は、三年で二人から四人です。四倍でも足りません。八倍です」
「うちは規模がでかい」
「人数で割っています」
俺は次のページをめくった。
「十七件のうち、十五件が既に支払われています。うちが払ったのは八件、他社が七件。残りの二件は、三ツ谷さんと、もう一件」
「だったら何だ。全部、事故だからだろうが」
「事故は、こんなに均されません」
俺はページの端を指で押さえた。
「十七件、全部が第三層から第五層で起きています。全部が新層——発生から半年以内の迷宮です。全部、事故報告書の発生日欄が空欄です」
椅子が倒れた。
胸倉を掴まれたのは、その次だった。榛原の手は大きくて、指の腹が硬かった。壁に背中が当たって、息が半分抜けた。
「あんた、人の死で飯食ってて楽しいか」
顔が近かった。息に、コーヒーの匂いがした。俺はファイルを落とさなかった。落とすと、拾う間に話が終わる。
「十七件のうち、三件は同じ日に事故報告書が書かれています」
「聞いてねえよ」
「日付の『1』の書き方が、全件同じです。頭に小さな撥ねがある」
「離せって言われる前に離してやろうか」
「五件は、事故の当日中に請求書が出ています。平均は九日です」
榛原の手の力が、少しだけ緩んだ。緩んだのが自分でも分かったのだろう。彼は俺を放して、椅子を起こした。
「……あんた、暗記してんのか」
「見た数字は、だいたい残ります」
「気味が悪いな」
「よく言われます」
榛原はネクタイを直した。直す必要のないネクタイだった。
「言っとくがな、鵜飼さん」
ドアの前で、彼は初めて低い声を出した。
「うちが潰れたら、四十一人が飯を食えなくなる。あんたが正しいと、何人が路頭に迷うか、それも数えとけ」
「数えます」
「数えて、どうする」
「数えた上で、支払いはいたしかねます」
ドアが閉まった。
応接室に一人になってから、俺はファイルを閉じた。指が震えていた。震えは、いつも遅れて来る。17件という数字が、まだ手の中にあった。
人が三年で17人死ぬ会社は、普通は潰れる。労基署が入り、保険会社が降り、人が集まらなくなる。アルゴスは十年もっている。もっているという事は、17人ぶんのどこかが、誰かにとって都合よく処理されてきたという事だ。
処理には、必ず書類がいる。書類には、必ず書いた人間がいる。俺の仕事は、その人間を捕まえる事ではない。書類のほうを、一枚ずつ止める事だ。
廊下に出ると、六花が壁に寄りかかっていた。腕を組んで、ドアのほうを見ていた。いつからいたのか分からない。
「入ろうかと思いました」
「入らなくていいです」
「入らなくていい顔じゃなかったですよ、あれ」
六花は俺のシャツの襟を見て、それから手を伸ばして、掴まれて伸びた所を指で伸ばした。
「十五件」
彼女が言った。
「もう払っちゃってる十五件、どうするんですか」
「返してもらいます」
「返してって、払った保険金をですか」
「詐欺で取ったものなら、詐欺で返してもらいます」
「……そんな事、できるんですか」
俺は答えなかった。
答えの代わりに、その夜、支社の端末で15件の支払記録を開いた。
保険金は、払った時点で終わる。終わったものを開けるのは難しい。時効もあるし、社内の決裁も一度通っている。返せと言うのは、身内に向かって、あなたたちは間違えましたと言うのと同じだ。
それでも、開けなければ数えられない。俺は一件目のファイルを展開した。
8件はうちが払っていた。査定した人間の名前が、決裁欄に入っているはずだった。8件とも、同じ名前だった。
俺の上司の、そのまた上の名前だった。




