第4話:六花さんは、なぜ辞めたんですか
榛原篤は、思っていたより丁寧な男だった。
応接室に通すと、上着を脱いで、椅子の背にきちんと掛けた。座る前に俺の名刺を両手で受け取り、目の高さで一度読んでから、内ポケットにしまった。
「いい仕事をされていると聞きました」
「どこからですか」
「業界は狭いので」
同じ言葉を、昨日も聞いた。
「三ツ谷の件で、うちの若いのが失礼を働いたそうで」
「失礼はされていません」
「そうですか。あいつら、口が悪くて」
榛原はテーブルの上で指を組んだ。爪が短く切ってあった。
「鵜飼さん。あなたが疑っているのは、うちですか。それとも私ですか」
「疑ってはいません。合わない数字があるだけです」
「合わせましょうか」
「合わせるのは、事実の側です」
榛原は笑った。歯を見せて、声を出して笑った。演技には見えなかった。それが、いちばん気になった。
「私はね、鵜飼さん。人が死ぬ仕事をしてるんですよ」
「はい」
「毎年、何人か還ってこない。それを分かってて潜らせる。分かってて送り出す。あんたにその覚悟がありますか」
「ありません。私は送り出す側ではないので」
「そうでしょう」
彼は満足そうに頷いた。
「だから、あんたたちには分からんのです。あれは事故だ。事故というのは、誰のせいでもないから事故なんですよ」
俺は手帳を開いた。ページの端に、昨日書いた行がある。「本当に、不幸な事故でした」が二回。榛原は、その言葉をまだ一度も使っていなかった。
「明日、奥さんをお連れします」
「三ツ谷佐和子さんをですか」
「ええ。あの人が納得すれば、あなたも困らんでしょう」
「私は困りません。困るのは、事実が動かない事だけです」
「頑固だな、あんた」
榛原は上着を取って、ドアの前で振り返った。
「一つだけ。三ツ谷はいい男でしたよ。本当に、惜しい」
惜しい。その語だけが、部下の言葉と揃っていた。
榛原が出ていくのを、支社長は玄関まで送っていった。戻ってきた時、ネクタイが少し曲がっていた。
「鵜飼くん。感じのいい人じゃないか」
「感じはいいです」
「そういう言い方はよせ」
「事実です。感じの良し悪しは、査定の項目にありません」
支社長は何か言いかけて、やめた。この人は俺を嫌ってはいない。ただ、俺がいると自分の一日が長くなる事を知っている。
「明日、奥さんが来るそうだ」
「聞きました」
「奥さんが取り下げると言えば、それで終わる話なんだぞ」
「終わりません」
「なぜ」
「支払いの可否は、遺族の気持ちでは決まらないので」
俺は階段を上がった。四階まで来ると、支社の音がだいぶ遠くなる。査定第二課が隅にあるのは、たぶん偶然ではない。
課に戻ると、六花が現場調査報告書の下書きを机に広げていた。
「鵜飼さん、これ、わたしの名前で出すんですか」
「同行者ですから、署名欄はお願いします」
報告書は三枚ある。一枚目が現場の状況、二枚目が所見、三枚目が写真の目録だ。六花は一枚目の余白に、鉛筆で通路の断面を描いていた。線が正確だった。図面を習った人間の線ではなく、そこを歩いた人間の線だった。
「この岩、落ちてきたんじゃないですよ」
「なぜ分かりますか」
「割れ口が古いんです。落ちてから、半年は経ってます」
「この層は、一か月前にできた事になっています」
六花は鉛筆を止めた。それから、自分の描いた線を見た。
「……そう書くと、変ですね」
「変です。ですので、そう書きます」
俺は所見の欄に、彼女の言葉を移した。移す時、言い回しは変えない。現場の人間の言い方は、たいてい正しい順番で並んでいる。
俺は書式を彼女のほうへ滑らせた。署名欄に、印字された文字がある。
日野六花。
彼女の手が止まった。ペンを取らなかった。取ろうともしなかった。三十秒ほど、そのままだった。
「六花さん」
「……あ、はい」
「書けますか」
「書けます。書けますけど」
彼女はペンを持って、また置いた。
「わたし、この様式、苦手なんですよ」
「難しい欄はありません」
「難しくないから苦手なんです」
意味が分からなかった。分からない事は、分からないと書くしかない。俺は手帳にそう書いた。
六花は椅子を回して、窓のほうを向いた。夕方の光が、支社の壁に長い影を作っていた。
「二年前まで、Bランクだったんですよ、わたし」
「聞きました」
「聞いてないでしょ。誰から」
「昨日、ご自分で言いました」
「……言いましたっけ」
彼女は笑って、すぐ笑わなくなった。
「六花さんは、なぜ辞めたんですか」
聞いてから、少し早かったと思った。三ツ谷佐和子の時と同じだ。俺は取り消さない事にしている。取り消すと、次に何を聞いても嘘になる。
六花は窓のほうを向いたままだった。答えなかった。空調の音がした。誰かが廊下を通った。
「怖くなったんですよ」
やがて、彼女は言った。
「ある日、急に。潜れなくなった」
「何かあったんですか」
「ありましたよ」
「何が」
「……鵜飼さん」
彼女はこちらを向いた。目は乾いていた。
「わたし、逃げたんです。それだけです」
嘘だ、と思った。嘘ではないのかもしれない。ただ、全部ではない。人が全部を言わない時、たいてい残りのほうが本体だ。
「分かりました」
「聞かないんですか」
「今日は聞きません」
「今日は」
「はい」
六花はしばらく俺を見て、それから報告書を引き寄せた。署名欄に、名前を書いた。字はきれいだった。丁寧すぎるほど丁寧だった。三ツ谷佐和子が喪服の裾を直した手つきに、少し似ていた。
「鵜飼さん」
「はい」
「たまには先に怒ってくださいよ。こっちが怒りにくいでしょ」
「怒っていますよ」
「嘘」
「本当です。顔に出ないだけです」
「じゃあ、どこに出るんですか」
俺は手帳を持ち上げた。今日の分は、もう三ページ書いてある。
「ここです」
六花は、その手帳をしばらく見ていた。それから、缶コーヒーを二本買ってきて、一本を俺の机に置いた。
「一本ぶん、貸しにしときます」
「昨日、私の分を飲みましたよね」
「その話は終わりました」
「終わっていません」
「鵜飼さん」
「はい」
「そこは、笑うところですよ」
「笑いました」
「どこがですか」
「顔に出ないだけです」
六花が帰ったあと、俺は手帳を最初のページから読み返した。十一冊目の、まだ三分の一だ。
昨日と今日で、同じ言葉が三回出てきていた。不幸な事故でした、が二回。惜しい男を亡くしました、が二回。惜しい、が一回。
業界の定型句だと言われれば、それまでだ。葬式で人が同じ事を言うのと変わらない。ただ、定型句というのは、たいてい誰かが最初に作っている。
俺はその三行に、丸をつけた。
翌朝、榛原は本当に来た。約束の十時ちょうど、受付から内線が入った。
「鵜飼さん、アルゴスの榛原様です。……それと、三ツ谷佐和子様が、ご一緒です」
俺は査定書のファイルを持って、階段を降りた。応接室のガラス越しに、喪服ではない服の佐和子が見えた。隣に榛原が座っている。距離が、近かった。




