第3話:その傷は、魔物のものではありません
六花は、俺を上から下まで見た。二度見た。
「あんた死ぬよ。背広で第四層とか、正気?」
「正気です」
「作業着、借りるって言いましたよね」
「借りませんでした」
「なんで」
「現場は、人と会う場所なので」
六花は口を開けて、何も言わずに閉じた。それから俺の腰に手を伸ばして、支給された縄を解いた。結び直した。ひどく速かった。
「先に降ります。わたしの足の置いた所だけ踏んでください」
「分かりました」
「返事、早すぎ。分かってないでしょ」
彼女はもう背を向けていた。
第四層〈鴉ノ巣〉は、一か月前まで存在しなかった。
降りると、空気の温度が変わる。岩の色は乾いた灰で、天井は高い。照明は機構が敷いたもので、二十メートルおきに立っている。灯りの間は暗い。
三層と四層の境に、傾いた岩棚がある。幅は人ひとり分。片側が落ちている。
「ここ、手を使わないで。腰で行ってください」
六花が先に渡って、向こうで振り返った。
「腰で、というのは」
「手をつくと、体が前に出るんです。前に出た人から落ちます」
俺は言われたとおりにした。半分まで来た所で、靴の底が滑った。
落ちはしなかった。縄が張っただけだ。ただ、心臓が一度だけ、はっきりと遅れて動いた。
「ほら言った」
「言われました」
「怖いですか」
「怖いです」
六花が少し驚いた顔をした。
「素直ですね」
「怖くないと言うと、次に何を言っても軽くなるので」
彼女は縄を手繰りながら、聞こえるか聞こえないかの声で、変な人、と言った。
アルゴスの案内役は二人だった。三十代と、四十くらい。どちらも装備が新しかった。
「わざわざすみません。本当に、不幸な事故でした」
三十代のほうが言った。俺は手帳に、その一言をそのまま書いた。
「三ツ谷さんとは、長かったんですか」
「五年です。惜しい男を亡くしました」
「事故の時、どこにいましたか」
「二十メートルほど後ろに。声が聞こえて、戻った時にはもう」
「二十メートル」
「はい」
俺は照明の間隔を見た。ちょうど灯りひとつ分だ。
現場は、通路が広間に開ける手前だった。岩が一枚、斜めに落ちている。剛はその下敷きになった、という事になっていた。
六花がしゃがんで、床の擦過を見ている。
「鵜飼さん。ここ、掃かれてます」
「掃かれている」
「血の跡が消えてる。水と、たぶん砂で」
「掃除は、どなたが」
俺は案内役を振り返った。四十くらいのほうが、少しだけ遅れて答えた。
「機構の清掃班が入ったはずです。……本当に、不幸な事故でしたので」
同じ言葉だった。順番も、間の取り方も同じだった。俺はもう一度、手帳に書いた。
六花はリュックから紙の地図を出して、床に広げた。書き込みが多い。相当古い。
「六花さん」
「はい」
「なぜ、地図を持っているんですか。この層は一か月前にできたはずです」
彼女の手が、一瞬だけ止まった。
「……前に、来た事があるので」
それ以上は言わなかった。俺も聞かなかった。今日は、その日ではない。
俺は死亡診断書の写しを開いた。所見は左側頭部の陥没。創口の幅、三センチ。上から下へ。一点。
それから、機構が公表している第四層の事案統計を開いた。三年分ある。落石、転倒、魔物との接触。第四層に出る大型種——通称、岩喰い。
「六花さん。岩喰いは、どう当ててきますか」
「下からです。あいつら、足元をすくって、倒れた所を上から潰します」
「打点は」
「複数。三つも四つも。人の形が残らないです」
「上から一点だけ、というのは」
「ないです」
六花は即答した。それから、自分の言葉に自分で気づいた顔をした。
「……ない、ですね」
俺は診断書の写しを床に置いた。所見図が刷ってある。人の頭を上から見た図で、左側に印がひとつ。
その隣に、機構の統計から起こした打点の分布図を並べた。86件分の点が、頭部の図の下側に集まっている。顎、耳の下、後頭部の低い位置。二枚を重ねると、印はどこにも乗らなかった。
「第四層の魔物起因の死亡・重傷、三年で八十六件。打点が一点だけの事例は、ゼロです」
「ゼロ」
「上から下へ入った例も、ゼロです。八十六件、全部下から上です」
六花が図を覗き込んで、短く息を吸った。
「……ほんとだ。全部、下から」
「創口の幅、三センチ。岩喰いの牙にも爪にも該当しません。落石でもありません。落石は面で当たります」
案内役の二人が、顔を見合わせた。
「あの、鵜飼さん。俺たちは現場にいたんですよ」
「はい」
「見たんです。あいつが潰されるところを」
「二十メートル後ろから、灯りの届かない位置で、ですね」
俺は手帳を閉じなかった。閉じるのはいつも、最後だ。
「見たものと、残ったものが合わない時は、残ったもののほうを信じます」
「何が言いたいんですか」
「その傷は、魔物のものではありません」
誰も動かなかった。照明が一度、瞬いた。
「言いがかりだ」
四十くらいのほうが、そう言った。声が硬かった。
「言いがかりです。今の段階では」
俺は認めた。認めた事で、相手は次の言葉を失った。
「私は査定人です。人を捕まえる権限はありません。持っているのは、支払いを止める権限だけです」
「……止めて、どうなる」
「止まります。三億円が」
「奥さんが困るだけだろうが」
三十代のほうが、初めて素の声を出した。
「あの人、子どもいるんだぞ。あんた、それ分かって言ってんのか」
「分かっています」
「分かってて止めるのか」
「止めます」
俺は診断書の写しを拾って、埃を払った。
「払った金は、取り戻せません。取り戻せないものを、事実が固まる前に渡す事はできない。……それに」
「それに、なんだ」
「三ツ谷さんが誰かに殺されているなら、その金は、殺した側の手元に入る可能性があります」
二人とも、何も言わなかった。言い返す言葉があるなら、ここで出るはずだった。出なかった。
六花が立ち上がって、地図を巻いた。
「鵜飼さん。上がりましょう。ここ、長くいる場所じゃない」
帰りの昇降機は、地上まで四分かかる。
誰も喋らなかった。六花は壁に背を預けて、天井を見ていた。俺は手帳を開いて、今日書いた行を上から順に読み返した。「本当に、不幸な事故でした」が、二回。同じ形で二回。
昇降機の表示が、階数を数えていく。三、二、一。扉が開く直前に、六花が言った。
「あんた、ちょっとだけ強いですね」
「私は非戦闘員です」
「知ってます」
彼女は先に降りた。今度は振り返らなかった。
支社の一階に、人だかりができていた。受付の前に、大きな男が立っている。革のコートの背中が、廊下を塞いでいた。
男が振り返って、俺を見た。笑っていた。名刺を出すまでもない。顔は業界誌で何度も見ている。
S級クラン「アルゴス」クランマスター、榛原篤。
「あんたが、鵜飼さんか」
男は片手を差し出した。もう片方の手には、うちの支社長がいた。腕を掴まれているのではない。肩を抱かれていた。
「話をしよう。うちの若いのが、失礼な事を言ったらしい」




