第2話:払ってしまえば、誰も困らない
訴状が届いた翌日、四階の会議室に十一人が集まった。
支社長、営業部長、法務課長、その部下。査定第二課からは俺と六花。残りは誰が呼んだのかも分からない。人数が多い会議は、たいてい結論が先に決まっている。
テーブルの真ん中に、訴状の写しが回されていた。俺は自分の手帳を開いたまま、回ってきた写しを右へ送った。
「まず、こういう話です」
営業部長が指を組んだ。この人は数字の話をする時、必ず指を組む。
「アルゴスさんは、うちの団体契約の三割です。三割ですよ。今回の三億を突っぱねて、来期の更新で全部飛んだら、支社の予算はどうなります」
「四千二百万が消えます」と俺は言った。
「分かってるじゃないですか」
「三億を払って四千二百万を守る、という話でしたら、計算が合いません」
営業部長が指をほどいた。
「鵜飼さん。あなたの言ってるのは、正論なんですよ」
「はい」
「正論って、誰も損しないうちは、いくらでも言えるんです」
法務課長が咳払いをした。
「訴訟になれば、うちは説明責任を負います。不払いの根拠が『打点がひとつだから』では、正直、法廷では弱い」
「弱いです」
「認めるんですか」
「今日の時点では弱い、という意味です」
支社長が、テーブルの端で腕を組んだ。
「払ってしまえば、誰も困らないんだよ」
誰も反論しなかった。困らないのは本当だ。遺族は金を受け取り、クランは契約を続け、支社は予算を守り、俺は判を押すだけでいい。困る人間は、この部屋に一人もいない。
「一点だけ、共有させてください」
俺は手帳を見ずに言った。
「三ツ谷剛さんの死亡保障は、一億円でした」
「今回の請求は三億だろう」
「事故の九日前に、三億に増額されています」
法務課長のペンが止まった。
「……増額は、違法ではないでしょう」
「違法ではありません」
「じゃあ、何の問題が」
「アルゴスの団体契約は四十一人です。九日前に増額されたのは、三ツ谷さん一人です」
営業部長が眉を寄せた。組んでいた指が、また組まれた。
「本人が申し込んだんじゃないんですか。子どもができたとか、そういう」
「申込書の筆跡が、本人の同意書と違います」
「筆跡なんて、体調で変わりますよ」
「変わります。ですので、断定はしていません」
俺は写しを一枚めくった。
「私が言っているのは、九日という数字だけです」
しばらく、誰も何も言わなかった。空調の音が、やけに大きく聞こえた。
「じゃあ、どうしろと」
支社長が言った。ようやく本題だった。
「現場調査を申請します。第四層へ降ります」
「非戦闘員が四階層まで? うちの規程で通ると思ってるのか」
「通らなければ、通る形にします」
その時、部屋の隅に置かれていたスピーカーが、短く鳴った。本社の査定部長が、いつから繋がっていたのか分からない。
「——通しなさい」
女性の声だった。全員が反射的に姿勢を直した。
「蓮見です。遅れて申し訳ない」
共栄海上ダンジョン保険、査定部長。蓮見冴子。名前だけは全員が知っていて、顔を見た事のある人間は支社にほとんどいない。
「部長、しかし規程が」
「規程は、社内の話でしょう。裁判所は社内規程を見ないの」
支社長が黙った。
「鵜飼くん。現場に降りて、九日の説明がつくなら払いなさい。つかないなら、つかないと書面で書きなさい。どちらでもいいの」
「はい」
「通しなさい。それも仕事のうちよ」
通話が切れた。会議は、それで終わった。人が出ていく音を聞きながら、俺は手帳を閉じなかった。まだ書く事があった。
会議室を出て、三階の契約課に寄った。
「増額の申込書、原本を見せてください。アルゴスの団体、九日前の分です」
担当は端末を叩いて、それから首をひねった。
「……うち、通ってないですね」
「通っていない」
「支社を経由してないんです。本社の契約管理で直接処理されてます」
「そういう事は、よくありますか」
「大口だと、たまに。急ぎの時とか」
「急ぎ、というのは誰の判断ですか」
「そこまでは。決裁欄、本社の印しか入ってないので」
俺はその一行を手帳に書いた。名前は書けなかった。印影が潰れていて、読めなかったからだ。
「写しを一部、いただけますか」
「いいですけど。これ、揉めてる案件ですよね」
「揉めています」
「……鵜飼さんって、そういうの平気なんですか」
「平気ではないです。慣れてはいます」
課に戻ると、六花が机の上に地図を広げていた。第四層の縦断図だった。俺が申請を出す前から、彼女はもう降りる準備をしている。
「部長、味方でしたね」
「そう見えました」
「疑ってるんですか」
「私の申請が通った理由を、まだ聞いていないので」
六花は口の端だけで笑って、地図の一点を指した。
「それより、こっち見てください。この現場、〈鴉ノ巣〉ですよ」
「発生から一か月の新層です」
「一か月って、迷宮としては赤ん坊です。魔物の数も浅いし、道も単純。……あそこで人が死ぬの、変ですよ」
「変というのは」
「わたしがいた頃の感覚だと、四層で死ぬのは初心者です。三ツ谷って人、Bランクでしょ」
俺は端末を開いた。〈鴉ノ巣〉の発生日を照会する。機構の公表は、四月十二日。支社の契約管理台帳には、四月十一日と入っていた。
「一日ずれています」
「入力ミスじゃないですか」
「かもしれません」
俺はその一日を、手帳の隅に書き写した。理由は自分でも説明できなかった。ただ、発生日がずれている案件を、俺は今までにも何度か見ている。
「入力ミスなら、直せばいいだけですけどね」
六花は俺の手元を覗き込んだ。
「その手帳、なんですか。ずっと同じの使ってません?」
「使っています」
「何冊目?」
「これで十一冊目です」
「几帳面ですねえ」
「几帳面ではないです。前のを捨てられないだけです」
彼女は、へえ、と言って興味を失った顔をした。興味を失った顔を作るのが上手い人だと思った。
「アルゴスって」
六花が地図を畳みながら言った。
「よく人が死ぬクランなんですよ。昔から」
「よく、というのは」
「数えた事はないです。ただ、業界にいたら耳に入ります。アルゴスは荒い、って」
「荒いクランは、他にもあるでしょう」
「ありますよ。でも、荒いクランはだいたい潰れます。アルゴスは十年もってる」
六花は地図をリュックに押し込んで、俺の背広を上から下まで見た。
「明日、その格好で来ないでくださいね」
「作業着を借ります」
「借りても死にますけど」
その夜、四階に残っていたのは俺と六花だけだった。
訴状の写しを、もう一度頭から読んだ。請求の趣旨、請求の原因、証拠方法。文章そのものは冷たい。ただ、書かせた人間の温度は残っていた。金額に触れている行は数えるほどで、書面のほとんどは、夫がどういう人間だったかに使われていた。
弁護士は、普通こういう書き方をしない。依頼人が譲らなかったのだと思う。
翌朝、俺は支社の地下にいた。作業着は、借りなかった。
第四層へ降りる許可証には、同行者の欄がある。そこには俺の名前と、アルゴスの案内役の名前が並んでいた。
殺された可能性のある男の、仲間だった連中が案内をする。俺は許可証にサインをして、エレベーターに乗った。




