第1話:そのダンジョン事故、保険金は下りません
応接室のテーブルには、3億円の請求書が置かれていた。
正確には、死亡保険金の請求書だ。ダンジョン内での死亡事故。契約者はクラン「アルゴス」、被保険者は所属探索者の三ツ谷剛、二十九歳。書類は完璧だった。事故報告書も死亡診断書も、クランマスターの署名も揃っている。
向かいには、その妻が座っていた。三ツ谷佐和子。喪服のままだった。泣いてはいなかった。隣の支社長が、机の下で俺の膝を二度叩いた。早く判を押せ、という意味だ。
俺は査定書を開き、朱肉を取った。佐和子が、少しだけ姿勢を正した。
「そのダンジョン事故、保険金は下りません」
支社長の手が止まった。佐和子は、まだ俺を見ていた。
「……なぜ」
「ご主人は、魔物に殺されていないからです」
「鵜飼くん」支社長が笑顔のまま声を落とした。「ちょっと、席を外そうか」
「支払いは、いたしかねます。理由は三点あります」
俺は査定書の余白を指で押さえた。
「一点。事故報告書には、第四層の大型個体による打撲と書かれています。死亡診断書の所見は、左側頭部の陥没。打点がひとつです」
「二点。第四層のあの個体は群れで動きます。打点がひとつで人は死にません」
「三点。事故報告書の発生日欄が、空欄です」
支社長が横から書類を引き寄せた。空欄を見て、また戻した。
「……様式の不備だろう。埋めさせればいい」
「埋めさせれば埋まります。ですが、今は空欄です」
「奥様、これはあくまで手続き上の話でして」支社長が身を乗り出した。「社としては、お支払いの方向で——」
「支社長」
「なんだ」
「その方向は、まだありません」
佐和子が、初めて視線を落とした。膝の上で指が一度だけ動いて、また止まった。
「あなたは」と彼女は言った。「主人が誰かに殺された、と言っているんですか」
「今は、魔物に殺されていない、とだけ言っています」
「同じでしょう」
「違います。前のほうを言うには、まだ数字が足りません」
「主人は」と彼女は言った。「潜って、死にました。それだけです」
「それだけかどうかを決めるのが、私の仕事です」
言ってから、少し早かったと思った。取り消さなかった。取り消せば、この先に何を言っても嘘になる。
佐和子は立ち上がった。喪服の裾を直す手つきが、丁寧すぎるほど丁寧だった。
「保険金で生活は立つでしょう、と」彼女は言った。「昨日、クランの方に言われました」
俺は答えなかった。彼女は一礼して、応接室を出ていった。
ドアが閉まると、支社長は笑顔をやめた。
「アルゴスはうちの最大手だぞ。団体契約が全部飛ぶ」
「飛ぶかもしれません」
「かもしれません、じゃない。飛ぶんだ。年間の保険料がいくらか分かって言ってるのか」
「四千二百万です」
「分かってるなら——」
「分かっているので、余計に払えません」
支社長は天井を見上げてから、椅子の背に体を預けた。この人は怒鳴らない。怒鳴る代わりに、こちらが折れるまで黙る。
「調べます。三日ください」
「三日で何が出る」
「出なければ、私が判を押します。不払いの取り消しも、私の名前でやります」
支社長は、しばらく俺の顔を見ていた。それから査定書を指で二度叩いて、出ていった。
廊下で、法務課の若い担当に捕まった。
「鵜飼さん、あれ勝てます? 訴えられたら」
「勝ち負けの前に、事実です」
「事実って、裁判では証拠って言うんですけど」
「同じ意味です」
「全然違いますよ」
彼は本気で困った顔をしていた。困らせている自覚はある。ただ、ここで安心させる嘘をつけば、三日後に困るのは俺だ。
査定第二課は、支社の四階の隅にある。窓際に段ボール、通路にも段ボール、机の上にも段ボール。全部、誰かの死に方が入っている。
俺は自分の席で、三ツ谷剛の事故報告書をもう一度開いた。最初に見るのは、いつも同じ欄だ。
迷宮発生日。
この欄が埋まっていた案件を、俺は半分も見た事がない。次に、日付の書き方を見た。「1」の頭に、小さな撥ねがある。癖だ。先月のアルゴスの物損の報告書にも、同じ撥ねがあった。書いた人間が同じか、書かせた人間が同じかのどちらかだ。
端末で、アルゴスの請求履歴を呼び出した。三年分。物損、後遺障害、死亡。俺は件数の欄より先に、日付の列を上から下まで撫でた。
どの案件も、発生日欄が空欄だった。全部だ。様式の不備が三年続くなら、それはもう不備ではなく運用だ。
背後で椅子が鳴った。
「鵜飼さん、それ、順番おかしくないですか」
日野六花。査定第二課の現場調査担当で、うちで唯一、第四層より下に降りた事のある人間だ。二年前まで探索者だったらしい。
「どこがですか」
「普通、金額から見るでしょ。三億ですよ。わたしなら三億から見ます」
「金額は動きません。動くのは事実だけです」
「……出た」
六花は俺の机に肘をついて、報告書を覗き込んだ。指の背で、発生日の空欄を軽く叩く。
「なんで発生日から見るんですか」
俺は書類をめくる手を止めた。窓の外で、支社の電光掲示が新規迷宮の発生を流している。今月に入って、三つ目だ。
「三日で結論を出します」
「答えになってないですよ」
「なっていませんね」
六花はそれ以上聞かなかった。代わりに、俺の机の隅の缶コーヒーを勝手に開けて、勝手に半分飲んだ。
「一個だけ言っときますけど」
彼女は缶を置いて、俺を見た。
「あの奥さん、泣いてなかったでしょ。ああいう人がいちばん、長く怒りますよ」
二日目までに分かった事は、多くなかった。現場の第四層は、発生から一か月の新しい迷宮だった。管理は迷宮災害共済機構。事故当日の入退場記録を照会したが、一度目は「様式が違う」と突き返された。様式を直して出し直すと、今度は「担当が不在」と言われた。
「あれ、待たせる気ですよ」
六花が、俺の後ろで受話器の音を聞いていた。
「機構って、なんで待たせるんですか」
「待たせる理由がある時と、待たせ方しか知らない時があります。今のは、たぶん後ろです」
「どっちにしても、三日は無理じゃないですか」
「無理でしょうね」
「言い切りますね」
「言い切ると、次の手を考えるので」
二日目の夕方、アルゴスから電話が入った。
「共栄海上さんですか。アルゴス事務局の者です」
声は若かった。原稿を読んでいる速さだった。
「三ツ谷の件で、お支払いが止まっていると伺いまして」
「止めています」
「……止めて、いる」
「はい」
一拍あった。原稿に無い返事だったのだろう。
「あの、うちのマスターが、一度ご挨拶をと申しておりまして」
「榛原さんですか」
「はい。榛原が、ぜひ直接」
「ご用件は」
「ですから、ご挨拶を」
「挨拶でしたら、書面で結構です」
受話器を置くと、六花が椅子ごとこちらを向いていた。
「今の、断らないほうがよかったかも」
「なぜ」
「来ますよ、あの人。断られたら来ます」
「知っているんですか」
六花は少し黙ってから、缶を潰した。
「業界、狭いんで」
三日目の朝、結論より先に別のものが届いた。内容証明。差出人は法律事務所。依頼人、三ツ谷佐和子。
保険金3億円の支払いを求めて、訴訟を提起する。そう書いてあった。
俺は封筒を机に置いて、査定書を開いた。朱の「不払」は、まだ乾いていなかった。




