第30話:それでも、保険金は下りません
迷宮災害共済機構の理事会室は、思っていたより古かった。
長机が二列。革の椅子が十四脚。壁に、歴代の理事長の写真が並んでいる。いちばん端の写真だけ、色が違った。二十年前より前のものだ。
俺の席は、長机の端に一つだけ用意されていた。六花は入口の外にいる。三十分前に別れた。彼女は「入口までは誰にも止められない」と言って、本当に入口で止まった。
「では、議題七。出再者からの意見聴取」
議長が読み上げた。
「共栄海上ダンジョン保険株式会社、査定第二課 鵜飼遼氏。十五分です」
俺は立ち上がった。座って話す形になっていた。ここは、そういう部屋だ。座って話せば、話は十四人の中に混ざる。
俺は立ったまま、資料を配った。三枚組を十四部。
「一枚目をご覧ください」
紙をめくる音がした。
「二十年前の第七号様式、一次案です。起案者欄に、鳥飼統一郎理事のお名前があります」
空気が動いた。誰かが咳をした。
「三ページ目に、迷宮発生日の欄があります。記入は必須と注記されています」
俺は次の紙を上げた。
「二枚目。六年前の通達、安発第百四十七号の改正です。この改正で、当該欄の記載は不要となりました」
「三枚目。当社が引き受けた探索者団体契約のうち、あるクランの死亡事故十七件です。全件が、迷宮の発生から三十日以内に起きています」
俺は一度、息をした。
「新層の事故率は、成熟層の三分の一とされています。三分の一の場所で、十七件が十七件とも起きる確率は、当社の主任計理人補が算定しました。書面は末尾に添付しています」
誰も紙をめくらなかった。全員がめくり終わっていた。
「発生日の欄を落とした様式で集めたデータから、発生日ごとの事故率が算出されています。集計しているのは貴機構です。料率を決めているのも貴機構です。新層の事故を十割引き受けているのも、貴機構です」
俺は資料を置いた。
「当社は、新層特約の様式要件の削除を申し入れます」
議長が、眼鏡を直した。
「……ご意見として、承ります」
「意見ではありません。申入れです」
「同じ事です」
「同じではありません。申入れには回答が要ります」
部屋の右奥で、椅子が鳴った。鳥飼統一郎が、初めて動いた。
あの日と同じで、鞄を持っていない。手ぶらだった。彼は資料の一枚目だけを手に取って、自分の名前の欄を見た。それから、口を開いた。
「想定の範囲内です」
部屋の全員が、少し安心したのが分かった。理事会で最も強い言葉は、いつも、いちばん短い言葉だ。
「理事」
俺は言った。
「二年前の九月、貴機構の理事会で、年間死者数が五年で二倍になった件について、あなたは同じ事をおっしゃっています」
「記録に残っているなら、そうでしょう」
「その年の死者は、二百十一人です」
「はい」
「率としては横ばい、とも」
「そう申しました」
「その率の分母は、発生日欄の無い書類から作られています」
鳥飼は、俺を見た。目が、細くも大きくもならなかった。ただ、まっすぐ向いた。
「鵜飼さん」
「はい」
「あなたは、私が事故を作ったとお考えですか」
「考えていません」
「では、何を」
「あなたは、事故を作れる仕組みを作りました」
俺は、その言い方以外を持っていなかった。
「作るのと、作れるようにするのは違います。法律上も違います。ただ、十七人は同じように死にました」
鳥飼は、資料を机に置いた。
「私は、探索者を殺した事はありません」
「はい」
「私がやったのは、書類を減らした事です。現場は書類に追われている。欄をひとつ減らせば、報告が上がりやすくなる。上がれば、統計が正確になる。統計が正確になれば、料率が下がる。料率が下がれば、若い探索者が保険に入れる」
「入れました」
「入れたでしょう。この十年で、加入率は四割から八割になった」
「なりました」
「四割の人間が、保険なしで潜っていたんです」
彼は、初めて少しだけ声を強めた。
「その四割を減らすために、私は欄をひとつ消した。あなたは、その欄を戻せと言っている。戻せば料率は上がる。上がれば、入れない人間がまた出る」
「出ます」
「では、何人まで許容しますか」
俺は答えなかった。答えを持っていなかったからではない。持っている答えが、この人の答えと同じ形をしていたからだ。
俺も数える。この人も数える。俺は十七を数え、この人は四割を数えた。手つきが、同じだった。
「理事」
「はい」
「あなたのおっしゃった事は、たぶん、七年前までは正しかったと思います」
「今は」
「五年前、事故の書き方を教える紙が、クランに配られました。差出人の名前は、貴機構でした」
部屋が、静まった。
「配った人間は、欄を消した効果を知っていた人間です。知らなければ、あの記入例は書けません」
「証拠は」
「様式番号の体系が一致しています。それと、封筒の名前を覚えている人間が一人います」
「起訴された人ですね」
「起訴されました。それでも、覚えています」
鳥飼は、しばらく黙っていた。それから、椅子から立ち上がった。座って話す部屋で、二人が立った。
「議長。私が答えます」
「理事、しかし」
「答えます」
彼は俺のほうへ、二歩だけ近づいた。
「申入れは、受けられません。理由は書面で出します」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない」
「あります。書面が残ります」
鳥飼は、そこで初めて、笑ったように見えた。目のあたりだけが、少し動いた。
「あなたの言う事は、正しい」
「はい」
「正しいが、あなたは十五分しか持っていない」
「今日は十五分です」
「明日は」
「明日も来ます」
彼は俺の顔を見た。あの日、名刺を長く見ていた時と、同じ角度だった。
「鵜飼さん」
「はい」
「あなたは、なぜ発生日から見るのですか」
俺は答えられなかった。
半年間、二度聞かれて、二度とも答えなかった質問だ。三度目に、いちばん聞かれたくない相手から聞かれた。
「……分かりません」
「分からない」
「はい。分からない事は、分からないと書きます」
鳥飼は、うなずいた。
「正直な人だ」
彼は俺の資料の一枚目を、もう一度手に取った。起案者欄を、指で押さえた。
「では、ひとつだけ申し上げます」
彼は言った。
「君はまだ、自分の名前の由来を知らないだろう」
俺は動けなかった。
彼は資料を置いて、ドアのほうへ歩き出した。
「理事」
「本日の議事は終わりです」
「私の名前を、あなたはどこで」
「十九年前です」
彼は振り返らなかった。
「あの日、私は現場責任者でした」
ドアが閉まった。
俺は長机の端に、一人で立っていた。十四人が、誰も俺を見なかった。
どうやって部屋を出たのかは、あまり覚えていない。廊下に出て、エレベーターを二本見送って、それから鞄を開けた。手帳を出した。裏表紙の内側から、写真を引き出した。
九歳の頃から持っている、色の褪せた一枚。施設の職員が、家族写真だと言った写真。
俺は初めて、真ん中ではなく、端を見た。
瓦礫の前に、大人が三人立っている。作業服の男が二人と、背広の男が一人。背広の男だけ、こちらを見ていた。若い。四十くらいだろうか。輪郭が、さっきの人と同じだった。
写真の左端に、小さく子どもが写っている。毛布をかけられて、地面に座っている。顔は、はっきりしない。
この写真は、家族写真ではない。事故現場の写真だ。
誰かが撮って、誰かが俺に渡した。渡した人間の名前を、俺は知らない。
エレベーターが開いた。入口で、六花が待っていた。三時間、立っていたらしい。
「どうでした」
「申入れは、断られました」
「じゃあ負けですか」
「書面が出ます」
「それ、勝ちですか」
「半分です」
俺は写真を、手帳に戻した。戻す手が、まだ震えていた。
「六花さん」
「はい」
「宿題の答え、まだ出せません」
「いいですよ」
彼女は、あっさりそう言った。
「そのうち出ますよ。あんた、数える人なので」
外に出ると、風が冷たかった。街の電光掲示が、新規迷宮の発生を流していた。今月に入って、五つ目だ。
俺は立ち止まって、その日付を見た。見て、手帳を開いた。
それでも、保険金は下りません。俺の仕事は、まだ一件も終わっていない。
第一部『三億円の不払い』はここまでです。次は、湧く前の迷宮に掛けられていた三件の話になります。




