第29話:あなたが払わなかったから
三ツ谷佐和子は、十時ちょうどに来た。
喪服ではない。灰色のカーディガンでもない。紺のジャケットを着ていた。仕事に行く人の服だった。
「先月から、働き始めました」
「そうですか」
「保険の事務です。生命保険のほうですけど」
俺は椅子を勧めた。六花が茶を出して、一礼して、部屋の隅の自分の席に戻った。出ていかなかった。俺も、出ていけとは言わなかった。
佐和子は、査定第二課を見回した。
「段ボール、多いですね」
「多いです」
「これ、全部」
「事故です」
「……そうですか」
彼女は湯呑みに手を触れて、置いた。
「取り下げました」
「はい」
「三億、いらないって言ったんです。弁護士の先生には、三回止められました」
「当然だと思います」
「わたしもそう思います」
彼女は少し笑った。前より、笑い方が普通になっていた。
「鵜飼さん。あの日、あなたが言った事、覚えてますか」
「どの日ですか」
「最初の日です。この会社の、下の応接室で」
「覚えています」
「言ってみてください」
俺は少し迷った。迷ってから、言った。
「そのダンジョン事故、保険金は下りません」
「それです」
佐和子は、うなずいた。
「あの言葉を、四十日ぶりに、初めてちゃんと聞いたんです」
「四十日」
「主人が死んで四十日、みんな優しかったんですよ。お気の毒でしたって。強く生きてくださいって。……全部、主人が死んだ事を前提にした言葉でした」
彼女は湯呑みを、両手で包んだ。
「あなただけが、死に方の話をしたんです」
俺は何も言えなかった。
「あの時は、腹が立ちました。人でなしだと思いました。訴えたのも、お金じゃなくて、そこです」
「はい」
「訴えて、書類が来て、読みました。十七件の一覧も、読みました。……わたし、保険の事務に就いたのは、それが読めるようになりたかったからです」
六花が、隅の席で、少しだけ動いた。
「読めるようになりましたか」
「まだです。半分くらい」
「半分は、大したものです」
「そうですか」
「私も五年で、半分です」
佐和子は、そこで初めて、はっきり笑った。それから、笑いを消した。
「主人は、殺されたんですよね」
俺は答えを選ばなかった。選ぶと、嘘になる。
「その可能性が高いと考えています。まだ確定していません」
「確定するんですか」
「します。時間はかかります」
「時間って、どのくらい」
「二年、あるいは三年です」
「長いですね」
「長いです」
彼女はうなずいた。それから、鞄から一枚の紙を出した。告訴状の写しだった。告訴人の欄に、三ツ谷佐和子の名前がある。
「先週、出しました。殺人ではなく、まず詐欺のほうです。先生が、そのほうが早いと」
「早いです」
「保険金請求を取り下げたのは、そのためです。……取り下げないと、わたしは『三億が欲しくて騒いでいる遺族』のままなので」
俺は、その紙を見ていた。字が、丁寧だった。喪服の裾を直した手つきと、同じ丁寧さだった。
「鵜飼さん」
「はい」
「わたし、あの日、あなたに謝ってほしかったんです」
「謝りませんでした」
「はい。謝られてたら、たぶん、五千万で降りてました」
俺は顔を上げた。
「榛原さんから、和解の提案がありましたね」
「五千万でした。口外禁止つきで」
「断られたと聞きました」
「断りました。……でも、正直に言うと、二晩考えました」
「二晩」
「子どもが二人います。ローンが十九年あります。三億を捨てるって、そういう事なので」
彼女は、湯呑みを見ていた。
「二晩考えて、思い出したのが、あなたの声だったんです」
俺は動けなかった。
「あの時、あなたは支社長さんに膝を叩かれてました。わたし、見てました」
「見ていましたか」
「見てました。それでも、あなたは判を押さなかった」
彼女は顔を上げた。
「あなたが払わなかったから、夫が殺されたと分かったんです」
部屋の音が、消えた。空調は動いていたはずだ。六花もいたはずだ。それでも、その二秒だけ、何も聞こえなかった。
「……三ツ谷さん」
「はい」
「私は、あなたを助けようとして止めたのではありません」
「知ってます」
「金額を数えていただけです」
「知ってます」
「その結果、あなたは三億を失いました」
「はい」
「それでも、私は同じ判断をします」
「知ってます」
彼女は、三度そう言った。そして、告訴状の写しを、俺のほうへ押した。
「だから、来たんです」
俺は、その紙を受け取った。受け取った手が、少し震えていた。震えは、いつも遅れて来る。
この半年、俺は自分のやっている事に名前をつけないようにしてきた。留飲とか、正義とか、そういう名前をつけると、次の案件でその名前に合わせて数え方が変わる。査定人が数え方を変えたら終わりだ。だから俺は、ただ数えていると言い続けてきた。
ただ、今この人が言った事は、数えられない側にある。
不払いが遺族を救う事がある。そんな項目は、約款のどこにも無い。研修でも習わない。あの冊子にも書いていない。
五年間、俺は自分が金の向きを変えているだけだと思っていた。向きを変えると、そこに立っている人の見え方まで変わるらしい。
五年で43件、俺は不払いを告げてきた。水をかけられた。警察を呼ばれた。ドアの前で終わった。その全部が正しかったのかは、分からない。分からないまま、明日も同じ事をする。
ただ、今日の一件だけは、数え終わった。
「あの、もう一つあるんです」
佐和子は、鞄から小さな封筒を出した。
「留守番電話、もう一件残ってました。短いので、先生は証拠に出さないと言ってます」
「聞かせていただけますか」
彼女は携帯を出して、再生した。
同じ声だった。今度は、酔っていなかった。早口だった。背後は静かで、風の音がした。
——さっきの話、忘れて。マスターに言うなよ。
——たぶん、俺の勘違いだから。……たぶんな。
音が切れた。佐和子は携帯を鞄にしまった。
「主人は、気づいてたんですよね」
「気づきかけていました」
「気づいて、それで」
彼女は、そこで一度、目を閉じた。
「わたし、あの晩、牛乳を買いに行かなかったんです」
俺は何も言わなかった。言葉が無かった。
「行っていれば、電話に出られたかもしれない。出ていれば、たぶん止めてました」
「止められなかったと思います」
「はっきり言いますね」
「事実なので」
「……そういうところですよ、あなた」
彼女は立ち上がった。立ち上がって、鞄を持って、部屋の入口まで行った。それから、振り返った。
「明日、機構に行かれるそうですね」
「誰から聞かれましたか」
「先生からです」
佐和子は、ドアの枠に手をかけた。
「行ってください」
それだけ言って、彼女は帰った。
六花が、隅の席から立ち上がった。
「鵜飼さん」
「はい」
「顔、出てますよ」
俺は自分の顔に触れた。触っても、分からなかった。




