第28話:訴えを、取り下げます
取下書は、翌日の午前に届いた。
訴えの取下書。原告 三ツ谷佐和子。請求の全部を取り下げる、と一行で書いてある。裁判所の受付印が押してあった。
支社は、その日の午後、少しだけ明るかった。
「終わったな」
営業部長が、廊下ですれ違いざまに言った。笑っていた。
「三億が消えた。今期の見込みが、これで戻る」
「戻りますね」
「鵜飼さん。あんたのやり方は好きじゃないが、結果は出た。これでいい」
「よくありません」
「なんでだよ」
「請求が消えただけです。事故が事故でなかった事は、まだどこにも書かれていません」
彼は笑うのをやめて、行ってしまった。
俺は自分の席に戻って、取下書の写しを見た。3億は下りない。俺が最初に言った事は、書類の上で実現した。実現した形が、俺の想定と全部違っていた。
最初に疑ったのは、金だ。クランが遺族に金を渡して、訴えを下げさせる。よくある形だ。俺は五年で三度見ている。
俺は法務課長に頼んで、榛原側の動きを確認してもらった。二日かかった。
「和解の提案は、ありましたね」
彼は、電話の内容をメモにして持ってきた。
「一か月前、榛原側から五千万。訴訟外で、口外禁止条項つき」
「受けましたか」
「断ってます。書面で」
「理由は」
「書いてません。ただ、代理人が一行だけ添えてます」
彼はメモを裏返した。
——依頼人は、金銭による解決を望んでいない。
「その後は」
「機構からは何も。榛原側からも、それきりです」
「では、金ではありません」
「ないでしょうね」
法務課長は、椅子に座らずに立ったままだった。
「鵜飼さん。あなた、今、少しほっとしましたね」
「していません」
「してますよ。顔に出ないだけで」
彼は帰り際、こう言った。
「保険屋が、原告が金を受け取っていない事にほっとしてる。……この仕事、長いですけど、初めて見ました」
六花は、取下書の写しを机に置いたまま、しばらく動かなかった。
「鵜飼さん」
「はい」
「これ、いい話ですか。悪い話ですか」
「分かりません」
「またそれですか」
「本当に分からないので」
彼女は写しを指で回した。
「わたし、探索者の時に一回だけ、示談っていうのを見たんです。仲間の家に、クランの人が封筒持って行くやつ」
「はい」
「その家、次の月に引っ越しました。誰も悪口は言わないんですけど、みんな、その人の名前を出さなくなるんです」
「金を受け取ると、そうなります」
「なりますよね」
彼女は写しを、俺のほうへ滑らせた。
「あの奥さん、それが分かってて断ったんだと思います」
「五千万です」
「五千万でも断る人はいますよ。というか、断る人は金額で決めてないです」
「では、何で決めていますか」
「言われた言葉です」
六花は、缶コーヒーのプルタブを起こした。左手だった。
「たぶん、鵜飼さんが最初に言ったやつです」
「私は、支払いを断っただけです」
「そうですね。でも、あの人からしたら、事故だと決めつけなかった最初の人じゃないですか」
俺は答えなかった。
「顔、出てますよ」
「出ていません」
「じゃあ手です。持ってる紙、揃えるの三回目です」
夕方、佐和子から電話が入った。代理人を通さない、直接の電話だった。
「三ツ谷です」
「鵜飼です」
「取下書、届きましたか」
「届きました」
「そうですか」
少し、沈黙があった。電話の向こうで、子どもの声がした。遠かった。
「三ツ谷さん」
「はい」
「なぜ、取り下げたんですか」
「電話では言いません」
「分かりました」
「……聞かないんですね」
「聞きました。言わないと言われたので、待ちます」
彼女は、そこで短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「明日、そちらに伺います。十時でいいですか」
「はい」
「あの、応接室じゃなくて」
「応接室ではなく」
「あなたの、いつも仕事をしてる場所がいいんです」
俺は少し考えた。
「四階の、査定第二課です。段ボールだらけです」
「そのほうがいいです」
「理由を伺っても」
「応接室って、断られる部屋じゃないですか」
俺は受話器を持ち直した。
「そうですね」
「あそこで話すと、また断られる気がして」
「明日は、断りません」
「断ってもいいんです」
彼女は、そこで少しだけ声を柔らかくした。
「わたし、断られに行くわけじゃないので」
電話を切ったあと、俺はしばらく受話器に手を置いていた。六花が、向かいの席から見ていた。
「奥さんですか」
「はい」
「明日、来るんですね」
「十時です」
六花は自分の机の上を見た。書類の山と、飲みかけの缶と、段ボール。それから立ち上がって、通路の段ボールを二つ、壁際に寄せ始めた。
「六花さん。腕は」
「片手で足ります」
俺も立った。二人で、三十分かけて通路を空けた。椅子を一つ、余分に出した。
空けてみると、査定第二課は思ったより広かった。五年間、一度も気づかなかった。
段ボールは、減らしたのではなく寄せただけだ。中身は同じで、43件の不払いと、その何倍かの支払いが入っている。寄せると通路ができる。通路ができると、人が入ってこられる。五年、俺はここに人を入れた事が一度も無かった。
その夜、俺は自宅で理事会の資料を作り直した。
十五分で話せるのは、三枚だ。俺は三枚を選ぶのに、四時間かかった。
一枚目は、一次案の起案者欄。二枚目は、六年前の通達の改正部分。三枚目は、17件の一覧と、発生からの日数。
三枚を並べると、話は一本になる。ならない部分は、全部切った。
切った紙の中に、三ツ谷剛の留守番電話の反訳があった。俺はそれを、三枚の上に置いた。置いてから、また外した。
証拠としては弱い。反訳は伝聞で、本人はもういない。理事会で使えば、話が湿る。湿った話は、あの部屋では一番弱い。
外して、鞄の外ポケットに入れた。持っていく必要は無い。それでも、置いていくと、無かった事になる気がした。
最後に、手帳を開いた。十一冊目は、もう三分の二まで来ていた。最初の頁から順に読むと、この半年が全部そこにある。
不幸な事故でした、が二回。原資。17件。安発第百四十七号。様式第七号、起案者欄。
俺は最後の白い頁に、明日の予定を書いた。
——十時、三ツ谷佐和子。四階。
——明後日、十四時、理事会。十五分。
二行だけだった。
書いてから、俺は手帳の裏表紙を見た。内側に、写真が一枚挟んである。古い。色が褪せて、端が丸くなっている。九歳の頃から、俺はこれをずっと持ち歩いている。理由は、他に持っている物が無いからだ。
施設の職員が、これは家族写真だと言った。俺はそう思ってきた。
俺はその写真を、久しぶりに引き出した。明日と明後日の事を考えると、なぜか、それを見ておきたくなった。




