第27話:連れて行かないでください、と言われました
理事会の三日前、査定第二課に人事の内示が来た。六花の異動だった。行き先は、支社の総務課。
「療養明けの配慮です」
支社長は、そう言った。言いながら、俺の顔を見なかった。
「本人の希望ですか」
「本人には、これから話す」
「では、配慮ではありません」
「鵜飼くん」
支社長は、ようやく顔を上げた。
「君の課は、来期で無くなる。査定第二課は本社の第一課に統合される。決まった話だ」
「私は」
「君の処遇は、まだ決まっていない」
彼は、その言い方を選んだ。決まっていないのではなく、決めるのが誰かの機嫌次第だという意味だ。
「日野くんは、まだ二十四だ。ここに置いておくと、彼女の経歴に君の名前が付く」
「付いて、何が起きますか」
「君と一緒にやった案件は、どこへ行っても説明を求められる。十年、二十年だ」
「本人が、それでいいと言った場合は」
「二十四の人間は、そう言うんだよ」
支社長は、机の上で指を組んだ。営業部長と同じ組み方だった。
「私も、二十四の時にそう言った」
「付きますか」
「付くんだよ。この業界は狭い」
俺は反論しなかった。反論の材料が無い。この人は、たぶん初めて俺に、正しい事を言っていた。
この半年で、俺の周りから人が減っていく速さは一定だった。蓮見冴子は更迭され、査定部を出た。戸倉光晴は起訴された。榛原篤は保釈中で、アルゴスは登録を停止されている。41人が仕事を失ったという記事を、俺は業界誌で読んだ。数えると言ったので、数えた。
俺のやっている事は、正しい方向に進むたびに、周りの人間の生活を一つずつ壊していく。それでも止めない理由は、たぶん一つしかない。止めた場合に壊れるのが、まだ名前を知らない誰かの生活だからだ。
顔を知っている人間の生活と、名前を知らない人間の生活を、俺は毎回、後者の側で数えている。
課に戻ると、六花が窓を開けていた。
「話、聞きました」
「早いですね」
「総務の子と友達なんで。書類は読めないけど、人は読めるので」
彼女は窓枠に手をついて、外を見ていた。
「わたし、行きます。総務」
「そうですか」
「引き止めないんですね」
「引き止める理由が、私の側にしかありません」
六花は振り返った。
「それ、引き止めてるのと同じですよ」
彼女は自分の机に座って、引き出しを開けた。中から、封筒を一つ出した。俺の前に置いた。
「開けてください」
開けた。願書だった。損害保険登録鑑定人ではない。うちの社内資格のほうだ。査定人補。受験には実務経験が要る。実務経験の欄に、査定第二課での二年が書かれていた。
推薦者の欄が、空白だった。
「書いてもらえますか」
「私は処分を受けています。推薦者としては、不利になります」
「知ってます」
「本社の第一課の課長のほうが」
「鵜飼さんがいいです」
彼女は、まっすぐこちらを見ていた。
「わたし、書類が読めないから、ずっと現場だったんです。現場にいると、書類のほうが人を殺してるって、分かるんですよ」
「はい」
「あの日、縄を切った時にも思いました。切ったこと、報告書に書かなくていいって言われた時にも」
俺は願書を持ったまま、動かなかった。
「読める側に行きます。時間かかっても」
俺はペンを取った。推薦者の欄に、名前を書いた。書いてから、余白に一行だけ足した。
——現場の言い方をそのまま書ける人間は、査定に少ない。
「なんですか、それ」
「推薦の理由です」
「褒めてます?」
「事実を書きました」
「じゃあ褒めてないですね」
「褒めています」
「じゃあ、もう一行足してください」
「何をですか」
「合格したら、査定第二課に戻します、って」
「その課は、来期で無くなります」
「じゃあ、作ってください」
俺はペンを持ったまま、彼女を見た。
「検討します」
「出た、検討します」
査定人補の試験は、年に一度しかない。合格率は三割を切る。合格しても、実務に就けるかは配属次第だ。
総務課へ異動した人間が、二年後に査定へ戻ってきた例を、俺は知らない。知らないからといって、無いとは書けない。書けないなら、推薦はできる。俺の仕事は、確率を当てる事ではなく、事実を書く事だ。
六花は願書を封筒に戻して、鞄に入れた。それから、椅子を回して、俺のほうを向いた。
「明後日、入口まで行きます」
「はい」
「中には入れないので、入口までです」
「はい」
彼女は少し黙ってから、言った。
「連れて行かないでください、と言われました」
「誰にですか」
「宗方さんに」
俺は顔を上げた。
「昨日、電話が来たんです。わたし宛に」
「宗方さんが」
「あの人、鵜飼さんの携帯は知ってるのに、わざわざ支社にかけてきて、わたしを出せって言ったんですよ」
六花は、その時の事を思い出す顔をした。
「日野さん、あの人を理事会に一人で行かせるな、って言われました。それから、でも連れて行かないでください、とも言われました」
「両方ですか」
「両方です。矛盾してますよね」
「していません」
俺は手帳を開いた。
「行かせるな、というのは、止めろという意味です。連れて行くな、というのは、止められなかった時の話です」
「……分かるんですか、それ」
「あの人は二十年前、自分が誰も連れて行かなかった側です」
六花は、しばらく黙っていた。
「鵜飼さん」
「はい」
「わたし、あんたが死ぬのは嫌ですけど」
「死にません。理事会です」
「知ってます。でも、鵜飼さんの死に方って、たぶん物理じゃないので」
その夜、支社を出たのは十時過ぎだった。携帯が鳴ったのは、駅の改札の前だった。知っている番号だった。三ツ谷佐和子の代理人だ。
「夜分にすみません」
「いえ」
「明日、こちらから正式に書面を出しますが、先にお伝えしておきます」
彼の声は、事務的だった。事務的に話す時、人は言いにくい事を言う。
「依頼人が、訴えを取り下げます」
俺は改札の前で、立ち止まった。人が横を通り過ぎていった。
「保険金請求を、ですか」
「はい。三億円全額です」
「理由を、伺えますか」
「……それは、私の口からは」
彼は、そこで少しだけ、事務的でない声になった。
「本人が、近いうちにそちらへ伺いたいと申しています。……止めましたが、聞きませんでした」
「私が伺います」
「それは結構です、と言われました」
「なぜですか」
「『あの人の職場で言いたい』そうです」
電話が切れた。
改札の向こうで、電車が一本行った。次が来るまで、八分ある。
3億が消える。原告が請求を取り下げれば、支払いの可否を争う場が無くなる。俺が止めた3億は、止めたのではなく、無くなる。
俺は柱に寄りかかって、手帳を開いた。開いたが、何も書かなかった。書く事が無いのではない。書くと、意味が決まってしまう気がした。




