第25話:様式第七号、起案者欄
屋上のトマトは、前より赤かった。
宗方克巳は、ビニール袋にそれを七つ入れて、俺に押しつけた。断る理由が無いので、受け取った。
「日野の嬢ちゃんは」
「今日は病院です。検査の日で」
「腕は」
「動くようになりました。まだ重い物は持てません」
「そうか」
彼は折りたたみの椅子に座って、しばらく菜園を見ていた。
「あんた、あの子を現場に出すな」
「私が出したのではありません」
「そういう話じゃない」
宗方は、こちらを見た。
「出さないと決めておけ、という話だ。決めておかないと、必要になった時に出す事になる」
俺は答えられなかった。
彼は立ち上がって、屋上の物置を開けた。中から、古い書類箱を一つ出してきた。埃はかぶっていない。時々開けていた箱だ。
「二十年前、俺が機構に出向してた二年間の記録だ」
「持ち出されたんですか」
「俺の起案分だけだ。それは、持って出ていい事になってる」
彼は箱から、クリアファイルを一冊出した。中の紙は、少し茶色くなっていた。
「これが、一次案だ」
俺は受け取った。表題を読んだ。
——探索者傷害・死亡事案報告様式(第七号様式)一次案
右上に、日付。二十年前の四月。その下に、四つの欄があった。起案、審査、決裁、施行。
起案の欄に、名前があった。
鳥飼統一郎。
俺は、その名前を、しばらく見ていた。風が吹いて、紙の端が持ち上がった。俺は手で押さえた。
起案という言葉は、地味だ。決裁欄の左端にあって、たいてい若い職員の名前が入る。文書を最初に書いた人間の欄だ。
だが、様式の起案だけは違う。様式を書く人間は、そのあと二十年、業界の全員がどこを見るかを決める。決裁した人間の名前は誰も覚えないが、様式は毎日使われる。
俺は五年間、この人の作った枠の中で仕事をしていた。枠の外側にあるものを見ないように育てられて、それを自分の判断だと思っていた。
「一次案の段階では、発生日の欄はあった」
宗方が言った。
「三ページ目の、上から四つ目だ。見てみろ」
俺はめくった。あった。迷宮発生日。記入は必須と、赤字で注記されている。
「俺が付けた注記だ。必須だと書いておかないと、現場は埋めない」
「なぜ、必須にしたんですか」
「当たり前だからだ」
宗方は、それしか言わなかった。
「二次案で消えたんですか」
「消えてない。二次案にも残ってる。俺がいた二年間は、ずっと残ってた」
「では、いつ」
「六年前だ。あんたが調べたとおりだよ」
彼は椅子に座り直した。
「二十年前に一次案を書いた人間が、十四年後に、自分の作った欄を自分で消した」
俺は紙を持ったまま、動けなかった。
「宗方さん。あなたが二十年前に反対されたのは、何にですか」
「様式そのものじゃない。様式は、よく出来てる。鳥飼さんは優秀だ。あれほど頭の切れる役人は、そういない」
「では」
「再保険だ」
彼は菜園のほうを見た。
「機構が、事故のデータを集めて、料率を出して、そのうえ再保険を引き受ける。全部を一人が握る形になると言ったんだ。俺は」
「その通りになりました」
「なった」
「なぜ、止まらなかったんですか」
「安かったからだ」
彼は乾いた声で言った。
「機構が引き受けると、保険料が安くなる。安くなると、クランが入る。クランが入ると、探索者が保険に入れる。……いい事なんだよ、途中までは」
俺は要領の写しを出して、一次案の隣に並べた。枠が、重なった。右下の番号を、指で並べた。頭の六桁が同じで、後ろの六桁だけが違う。
「同じ体系です」
「そうだ」
「五年前にクランに配られた要領は、機構の内部様式として作られています」
「作れる人間は、限られる」
「起案者は」
「一次案と同じだろうな」
俺は手帳を開いた。
3億円の死亡保険金から始まった。書き方を教える紙があった。紙を配ったのは機構だった。機構の様式から欄を消したのも、その紙を作れる立場にいたのも、同じ一人だった。
敵は、榛原篤ではなかった。蓮見冴子でもなかった。
様式を作った人間だ。
「宗方さん。これは、お預かりしてよろしいですか」
「持っていけ。俺はもう、それで何もしない」
「証言していただく事は」
「する」
即答だった。俺は顔を上げた。
「二十年、やらなかった事を、今さらやらない理由が無い」
「ご迷惑がかかります」
「七十二だ。かかる迷惑の量が、もう少ない」
彼はトマトの袋を、俺の足元に置き直した。
「ただし、条件がある」
「なんでしょう」
「あんたが最後まで書く事だ。途中で誰かに渡すな。渡した書類は、必ず薄まる」
「分かりました」
俺は箱を鞄に入れた。入れてから、もう一つ聞くべき事を思い出した。
「宗方さん」
「なんだ」
「前に、私の名前を聞いて、帰れとおっしゃいましたね」
彼の手が、止まった。
「……ああ」
「理由を教えていただけますか」
宗方は、しばらく黙っていた。長かった。トマトの支柱が、風で少し鳴った。
「鵜飼という名字を、俺は二十年で二度聞いた」
「二度」
「一度は、今日のあんただ」
「もう一度は」
「十九年前だ」
彼は菜園から目を離さなかった。
「機構の資料室で、鳥飼さんが一人で古い箱を開けてた。俺が入っていったら、慌てて閉めた。……あの人が慌てるのを、俺はあの一回しか見た事がない」
「箱の中身は」
「見てない。ただ、閉める前に、書類の表紙が見えた」
彼は、そこで初めてこちらを向いた。
「鵜飼、と書いてあった」
俺は動けなかった。
「あんた、いくつだ」
「二十八です」
「じゃあ、九つか十だな。十九年前は」
「そうなります」
「何か、覚えてるか」
俺は答えられなかった。
覚えていない。十九年前の事を、俺は何も覚えていない。両親が死んだ事も、自分が病院にいた事も、全部あとから聞いた話だ。俺が持っているのは、記憶ではなく、記録だけだった。
九歳の四月に、両親が死んだ。それは知っている。書類に書いてある。どこで、どういう形で死んだのかは、書類の写しでしか知らない。写しは施設に保管されていて、十六の時に一度だけ渡された。渡された時、俺は日付だけを覚えた。
あの月の事を、俺は一秒も覚えていない。前の月も、後の月も覚えていない。医者は珍しくないと言った。珍しくないなら、それでいい。
覚えていないので、俺は日付から入るしかない。だから俺は、記録の日付を見る。見ないと、自分がどこにいたのか分からないからだ。
「宗方さん」
俺の声は、たぶん少し変だった。
「その箱は、まだあると思いますか」
「知らん」
彼は言った。
「ただ、あの人は物を捨てない人だ。……欄は消すがな」
鵜飼が発生日から見る理由は、ここまで一度も本人の口から語られていません。次の章で、初めてその日の話になります。




