第24話:あれは、俺が刷ったんじゃない
戸倉光晴は、痩せていた。
喫茶店の奥の席で、彼は水しか頼まなかった。前に会った時はコーヒーを二口飲んだ。今日は、それもしない。
起訴が決まった人間は、金の使い方が変わる。裁判の費用と、辞めたあとの生活を、両方数える事になるからだ。俺は、その計算を何度も見てきた。不払いを告げた家の食卓で、遺族が同じ計算を始める。数える顔は、みんな似ている。
「明日だ」
開口一番、それだった。
「起訴されるんですか」
「保険金詐欺の共犯だ。十七件のうち、下書きを書いた分」
「弁護人は」
「国選だ。マスターは、顧問弁護士を寄越さなかった」
当然だろう。榛原にとって、戸倉はもう外側の人間だ。
「証言は、しない」
「前にもそう伺いました」
「今度は、できないんだ。自分の裁判があるからな。喋れば、自分の罪を厚くする」
「そうですね」
「……そうですね、じゃねえだろ」
戸倉が、初めて声を荒げた。周りの客が二人、こちらを見た。
「あんた、俺に何を言わせに来た」
「何も言わせません」
「じゃあ何しに来た」
「報告に来ました」
俺は鞄から、紙を出した。
「あなたが渡してくださった記載要領について、判明した事です」
「判明」
「はい。三点あります」
俺は指を折らなかった。折らずに、順番に言った。
「一点。要領の様式番号の頭六桁は、迷宮災害共済機構の内部様式の体系と一致します」
「……」
「二点。機構は六年前、事故報告書の様式から迷宮発生日の欄を落としました。通達で」
「二点目は、俺には関係ないだろ」
「三点」
俺は紙を、彼のほうへ滑らせた。
「機構は、当社を含む六社の再保険を引き受けています。新層の事故は、十割を機構が負担します。ただし条件が一つあります。事故報告書が、その様式で作成されている事」
戸倉の目が、紙の上で止まった。
「……つまり」
「あなたが要領どおりに書いた十七件は、全部、機構の帳簿に入りました」
「俺が、書いたから」
「あなたが書いたからです」
彼は水のグラスを持ち上げて、飲まずに置いた。
この人は、二十年間、榛原の隣にいた。現場に出られなくなって、事務に回されて、それでも辞めなかった。辞めなかった理由は、たぶん忠誠ではない。他に行く場所が無いというのは、四十を過ぎた人間にとって、忠誠とほとんど同じ形をしている。
その二十年で、彼が書いた下書きは何百枚あるだろう。そのうちの十七枚が、人の死に値段をつけた。
「じゃあ、俺は」
「あなたは道具です」
「はっきり言うな、あんた」
「事実なので」
戸倉は、両手で顔を擦った。前に会った時と同じ仕草だった。
「マスターは、知ってたのか」
「知らなかったと思います」
「なんでだよ」
「知っていたら、もっと上手にやります。榛原さんは、要領を便利な紙だと思って使っていた。誰の利益になるかまでは考えていません」
「俺と同じか」
「そこは、少し違います」
俺は手帳を開いた。
「榛原さんは、書けば通ると知っていて使いました。あなたは、書けと言われて書きました」
「同じだろうが」
「法律上は、たぶん同じです」
「じゃあ同じだ」
「私の中では、違います」
戸倉は、しばらく黙っていた。
「……あんた、そういう事を言うから、恨まれるんだよ」
「恨まれています」
「知ってる」
彼は、ようやく水を飲んだ。半分飲んで、置いた。
「あれは、俺が刷ったんじゃない」
「はい」
「五年前、事務所に封筒で届いた。差出人は無い。……そう言ったよな、前に」
「伺いました」
「あれ、嘘だ」
俺は手帳を持つ手を止めた。
「半分だけな」
戸倉は、テーブルの上で指を組んだ。
「封筒で届いたのは本当だ。ただ、差出人が無いんじゃない。俺が捨てた」
「捨てた」
「表書きに、送り主の名前が入ってた。俺が封を切って、中を見て、封筒だけ捨てたんだ」
「なぜですか」
「マスターに渡す時、封筒があると、どこから来たか分かるだろ。分かると、マスターが直接そこへ連絡を取る。取ったら、うちが向こうに借りを作る」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「二十年、副官をやってると、そういうのが分かるようになる。……借りを作らせない事だけが、俺の仕事だった」
「名前を、覚えていますか」
「覚えてる」
彼は、水のグラスの水滴を指で拭った。
「団体名は、迷宮災害共済機構だ。部署までは入ってなかった」
「個人名は」
「入ってた」
戸倉は顔を上げた。
「……あんた、その名前、もう知ってるだろ」
俺は答えなかった。
「調査委員会に、壁際に座ってた爺さんがいたそうだな。日野さんから聞いた」
「いました」
「それだ」
俺は手帳に、名前を書かなかった。書かなくても、忘れない。
「戸倉さん」
「なんだ」
「今のは、証言になります」
「ならねえよ。裁判では、俺が助かりたくて言った話にされる」
「そうかもしれません」
「そうなんだよ」
彼は立ち上がった。立ち上がってから、また座った。
「一つだけ、返しといてくれ」
彼はポケットから、あの領収書を出した。
俺が受け取ったはずのものだった。あの夜、駐車場で押しつけられて、俺はファイルに綴じた。今テーブルにあるのは、その写しだった。
「日野さんに、写しをもらった。……俺のじゃなくなったから、写しでいい」
「はい」
「三ツ谷の奥さんに、渡してくれないか」
俺は写しを見た。但し書きの欄に、あの字がある。
——貸した分。返さなくていい。三ツ谷
「私が渡すと、あなたの心証が良くなるように見えます」
「見えるだろうな」
「訴訟では、不利に働く可能性があります」
「知ってるよ」
戸倉は、少しだけ笑った。
「三万は、返せなかった。あいつの報告書は、要領どおりに書いた。……俺が返せるのは、その紙が本物だったって事だけだ」
彼は喫茶店を出ていった。会計は、俺が払った。二人ぶんで千二百円だった。
俺は戸倉光晴を許していない。
17件の下書きを書いたのは、この人だ。書かなければ、17件は通らなかった。要領を渡してきた事も、封筒を捨てた事も、二十年ぶんの理屈で説明できるだけで、正しくはない。
それでも俺は、この人の証言を使うつもりでいた。使えないと分かった今も、この人が言った事を全部、手帳に書いている。
許さないまま使う。自分のやっている事の名前は、それだと思っている。名前をつけておかないと、いつか、自分が優しいのだと勘違いする。
支社に戻る途中、携帯が鳴った。知らない番号だった。
「鵜飼さんか」
老人の声だった。宗方だった。
「明日、来い」
「うかがいます」
「トマトが余ってる」
「はい」
「……それと」
彼は、そこで少し黙った。
「一つ、渡す物がある。二十年、捨てられなかったやつだ」




