第22話:前の晩の、留守番電話
三ツ谷佐和子の訴訟は、第三回の口頭弁論を終えていた。
俺は担当を外れているので、法廷には行かない。行けば相手方の代理人に喜ばれるだけだ。記録は法務課長が回してくれた。
「向こう、強くなってますよ」
彼はコーヒーを二つ淹れて、一つを俺の前に置いた。この人はいつも二つ淹れる。
「強くなった、というのは」
「主張の組み立てです。最初は感情の書面だったのが、三回目でだいぶ形になってる。……あなたが渡した十七件、効いてます」
「そうですか」
「効いてるんですけどね」
彼は自分のカップを見た。
「効きすぎると、和解の話が出ます。うちの本社第一課、そろそろ折れますよ」
「金額は」
「三億満額でしょう。払って終わらせる」
俺はカップを持ち上げて、置いた。
「払われると、困ります」
「困りますね。三億が榛原の団体契約から出て、機構が全額を再保険で引き受ける。誰も痛まないまま、この話は終わる」
「終わらせません」
「どうやって」
「原告に、勝ちすぎないでもらいます」
法務課長が、コーヒーを吹きそうになった。
「……あなた、被告側ですよ」
「はい」
「原告に会いに行く気ですか」
「行きます」
「訴訟中ですよ。代理人を通さないと問題になります」
「通します。代理人に連絡します」
連絡は、その日のうちについた。弁護士は最初、断ってきた。当然だ。三度目の電話で、彼は条件を出した。自分が同席する事、内容は全部記録する事、和解の提案は一切しない事。
「その三つなら、問題ありません」
「……あなた、何がしたいんですか」
「保険金を払わせたくないだけです」
「うちの依頼人は、その保険金を請求してるんですが」
「知っています」
保険会社の人間が、係争中の原告に会いに行く。普通はやらない。やれば、必ず後で叩かれる。
叩かれる覚悟の話ではない。叩かれた時に、こちらの言い分が全部記録に残っているかどうかの話だ。だから代理人の同席と録音を、こちらから条件にした。密室で言った事は、後で意味を変えられる。記録に残した事は、変えられない。それだけの理由で、俺はいつも不利な形を選ぶ。
会ったのは、駅前の弁護士事務所の会議室だった。
佐和子は、前より顔色が良かった。髪を結んでいた。膝の上に、鞄を抱えていなかった。
「どうも」
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「お礼を言われる筋合いはないです」
「はい」
弁護士が録音機を回した。
「では、始めてください」
俺は封筒を出さなかった。今日は、渡す物が無い。
「三ツ谷さん。裁判は、あなたが勝ちます」
弁護士の眉が上がった。
「おい、それは」
「見通しの話です。証拠は揃っています。三億は、たぶん近いうちに支払われます」
「……良かった、という話ですか」
佐和子が言った。声は硬かった。
「良くありません」
「え」
「三億が支払われると、この事故は事故として確定します。保険金が下りた事故は、正当な事故です。書類の上では、それで終わります」
佐和子の指が、膝の上で動いた。
「終わったら、どうなるんですか」
「榛原篤は、詐欺の立証が難しくなります。機構は、再保険で全額を負担して、それで帳簿を閉じます。次の新層で、また同じ書式の報告書が出ます」
「……」
「あなたのご主人は、その最初の一件ではありません。十七件目です」
録音機の赤いランプだけが点いていた。
「鵜飼さん」
弁護士が口を挟んだ。
「それは、依頼人に取り下げを勧める話ですか。だとしたら、私は止めます」
「勧めません」
俺は佐和子を見た。
「取り下げないでください。前にもそう言いました」
「じゃあ、何を言いに来たんですか」
「私は、あなたに勝ってほしい。ただ、勝ち方を選べます」
俺は手帳を開いた。
「今の主張は、事故は榛原の管理不足だった、という組み立てです。これで勝つと、三億が下りて終わります」
「はい」
「主張を、事故ではなかった、に変えられます」
「変えたら」
「保険金は下りません」
佐和子の目が、少しだけ開いた。
「三ツ谷さん。事故でないなら、死亡保険金は支払われません。あなたが受け取るはずの三億は、消えます」
「……」
「代わりに、榛原篤は詐欺と、その先の刑事の話になります。機構の再保険にも手が届きます」
弁護士が、額を押さえた。
「あなた、依頼人に三億を捨てろと言ってるんですよ。分かってますか」
「分かっています」
「保険会社の人間が、自社に有利な選択を原告に勧めている。これ、外に出たら大問題です」
「出してください。記録は取っているはずです」
彼は絶句した。
佐和子は、ずっと黙っていた。それから、鞄から小さなものを出した。携帯電話だった。旧い型で、画面に傷が入っている。
「先月、返ってきました」
「クランからですか」
「郵便で。差出人は書いてありませんでした」
俺は動かなかった。
「警察に相談したと、前に言いましたよね。たぶん、それで」
「中身は」
「消されてました。ほとんど」
彼女は携帯を、テーブルに置いた。
「でも、留守番電話だけ、残ってたんです。サーバーのほうに」
弁護士が、録音機の横にもう一台、機械を置いた。
「再生します。証拠として提出予定のものです」
音が流れた。男の声だった。少し酔っている。背後で、居酒屋のような音がした。
——もしもし。俺。牛乳、切れてたろ。買っといてくれ。
——あ、それとさ。明日の現場、湧いたばっかりの迷宮らしいわ。
——ちょっと変な話でさ。マスターが、湧く前から現場の写真持ってたんだよ。……ま、いっか。おやすみ。
音が切れた。誰も、何も言わなかった。三十秒ほど、部屋にはエアコンの音しか無かった。
いい声だった。特別な声ではない。仕事帰りに一杯やって、家に電話をかけて、牛乳を頼む男の声だ。この声を、俺は書類でしか知らなかった。三ツ谷剛、二十九歳、Bランク、死因は左側頭部の陥没。それが俺の持っていた全部だった。
人は、死んだあとで書類になる。書類になった人は、もう声を出さない。出した声が残っていた事に、俺はまだ慣れていなかった。
俺は手帳を開いた。開いたが、手が動かなかった。
「三ツ谷さん」
「はい」
「この録音は、いつのものですか」
「事故の、前の晩です」
「日付は」
佐和子が、携帯の画面を見た。
「四月……十三日です。夜の十一時過ぎ」
俺は数字を並べた。
四月九日、特約の締結。
四月十二日、〈鴉ノ巣〉の発生。機構の公表。
四月十三日、三ツ谷剛の留守番電話。マスターが、湧く前から現場の写真を持っていた。
四月十四日、事故。湧いてから、二日後だ。
榛原篤は、湧いていない迷宮の写真を持っていた。
その迷宮に保険が掛けられたのは、湧く三日前だ。




