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そのダンジョン事故、保険金は下りません 〜戦えない査定人が、S級クランの嘘を数字だけで剥がします〜  作者: 十河迅


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22/30

第22話:前の晩の、留守番電話

 三ツ谷佐和子の訴訟は、第三回の口頭弁論を終えていた。


 俺は担当を外れているので、法廷には行かない。行けば相手方の代理人に喜ばれるだけだ。記録は法務課長が回してくれた。


「向こう、強くなってますよ」


 彼はコーヒーを二つ淹れて、一つを俺の前に置いた。この人はいつも二つ淹れる。


「強くなった、というのは」


「主張の組み立てです。最初は感情の書面だったのが、三回目でだいぶ形になってる。……あなたが渡した十七件、効いてます」


「そうですか」


「効いてるんですけどね」


 彼は自分のカップを見た。


「効きすぎると、和解の話が出ます。うちの本社第一課、そろそろ折れますよ」


「金額は」


「三億満額でしょう。払って終わらせる」


 俺はカップを持ち上げて、置いた。


「払われると、困ります」


「困りますね。三億が榛原の団体契約から出て、機構が全額を再保険で引き受ける。誰も痛まないまま、この話は終わる」


「終わらせません」


「どうやって」


「原告に、勝ちすぎないでもらいます」


 法務課長が、コーヒーを吹きそうになった。


「……あなた、被告側ですよ」


「はい」


「原告に会いに行く気ですか」


「行きます」


「訴訟中ですよ。代理人を通さないと問題になります」


「通します。代理人に連絡します」


 連絡は、その日のうちについた。弁護士は最初、断ってきた。当然だ。三度目の電話で、彼は条件を出した。自分が同席する事、内容は全部記録する事、和解の提案は一切しない事。


「その三つなら、問題ありません」


「……あなた、何がしたいんですか」


「保険金を払わせたくないだけです」


「うちの依頼人は、その保険金を請求してるんですが」


「知っています」


 保険会社の人間が、係争中の原告に会いに行く。普通はやらない。やれば、必ず後で叩かれる。


 叩かれる覚悟の話ではない。叩かれた時に、こちらの言い分が全部記録に残っているかどうかの話だ。だから代理人の同席と録音を、こちらから条件にした。密室で言った事は、後で意味を変えられる。記録に残した事は、変えられない。それだけの理由で、俺はいつも不利な形を選ぶ。


 会ったのは、駅前の弁護士事務所の会議室だった。


 佐和子は、前より顔色が良かった。髪を結んでいた。膝の上に、鞄を抱えていなかった。


「どうも」


「お時間をいただき、ありがとうございます」


「お礼を言われる筋合いはないです」


「はい」


 弁護士が録音機を回した。


「では、始めてください」


 俺は封筒を出さなかった。今日は、渡す物が無い。


「三ツ谷さん。裁判は、あなたが勝ちます」


 弁護士の眉が上がった。


「おい、それは」


「見通しの話です。証拠は揃っています。三億は、たぶん近いうちに支払われます」


「……良かった、という話ですか」


 佐和子が言った。声は硬かった。


「良くありません」


「え」


「三億が支払われると、この事故は事故として確定します。保険金が下りた事故は、正当な事故です。書類の上では、それで終わります」


 佐和子の指が、膝の上で動いた。


「終わったら、どうなるんですか」


「榛原篤は、詐欺の立証が難しくなります。機構は、再保険で全額を負担して、それで帳簿を閉じます。次の新層で、また同じ書式の報告書が出ます」


「……」


「あなたのご主人は、その最初の一件ではありません。十七件目です」


 録音機の赤いランプだけが点いていた。


「鵜飼さん」


 弁護士が口を挟んだ。


「それは、依頼人に取り下げを勧める話ですか。だとしたら、私は止めます」


「勧めません」


 俺は佐和子を見た。


「取り下げないでください。前にもそう言いました」


「じゃあ、何を言いに来たんですか」


「私は、あなたに勝ってほしい。ただ、勝ち方を選べます」


 俺は手帳を開いた。


「今の主張は、事故は榛原の管理不足だった、という組み立てです。これで勝つと、三億が下りて終わります」


「はい」


「主張を、事故ではなかった、に変えられます」


「変えたら」


「保険金は下りません」


 佐和子の目が、少しだけ開いた。


「三ツ谷さん。事故でないなら、死亡保険金は支払われません。あなたが受け取るはずの三億は、消えます」


「……」


「代わりに、榛原篤は詐欺と、その先の刑事の話になります。機構の再保険にも手が届きます」


 弁護士が、額を押さえた。


「あなた、依頼人に三億を捨てろと言ってるんですよ。分かってますか」


「分かっています」


「保険会社の人間が、自社に有利な選択を原告に勧めている。これ、外に出たら大問題です」


「出してください。記録は取っているはずです」


 彼は絶句した。


 佐和子は、ずっと黙っていた。それから、鞄から小さなものを出した。携帯電話だった。旧い型で、画面に傷が入っている。


「先月、返ってきました」


「クランからですか」


「郵便で。差出人は書いてありませんでした」


 俺は動かなかった。


「警察に相談したと、前に言いましたよね。たぶん、それで」


「中身は」


「消されてました。ほとんど」


 彼女は携帯を、テーブルに置いた。


「でも、留守番電話だけ、残ってたんです。サーバーのほうに」


 弁護士が、録音機の横にもう一台、機械を置いた。


「再生します。証拠として提出予定のものです」


 音が流れた。男の声だった。少し酔っている。背後で、居酒屋のような音がした。


 ——もしもし。俺。牛乳、切れてたろ。買っといてくれ。


 ——あ、それとさ。明日の現場、湧いたばっかりの迷宮らしいわ。


 ——ちょっと変な話でさ。マスターが、湧く前から現場の写真持ってたんだよ。……ま、いっか。おやすみ。


 音が切れた。誰も、何も言わなかった。三十秒ほど、部屋にはエアコンの音しか無かった。


 いい声だった。特別な声ではない。仕事帰りに一杯やって、家に電話をかけて、牛乳を頼む男の声だ。この声を、俺は書類でしか知らなかった。三ツ谷剛、二十九歳、Bランク、死因は左側頭部の陥没。それが俺の持っていた全部だった。


 人は、死んだあとで書類になる。書類になった人は、もう声を出さない。出した声が残っていた事に、俺はまだ慣れていなかった。


 俺は手帳を開いた。開いたが、手が動かなかった。


「三ツ谷さん」


「はい」


「この録音は、いつのものですか」


「事故の、前の晩です」


「日付は」


 佐和子が、携帯の画面を見た。


「四月……十三日です。夜の十一時過ぎ」


 俺は数字を並べた。


 四月九日、特約の締結。

 四月十二日、〈鴉ノ巣〉の発生。機構の公表。

 四月十三日、三ツ谷剛の留守番電話。マスターが、湧く前から現場の写真を持っていた。

 四月十四日、事故。湧いてから、二日後だ。


 榛原篤は、湧いていない迷宮の写真を持っていた。


 その迷宮に保険が掛けられたのは、湧く三日前だ。

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