第21話:様式を作った人間が、いるはずです
共済機構安全研究財団は、雑居ビルの三階にあった。
看板は出ていない。郵便受けに、テプラで貼ってあるだけだ。エレベーターは無い。階段の踊り場に、園芸用のプランターが三つ置いてあった。
「なんか、思ってたのと違いますね」
六花が階段を上がりながら言った。左腕はもう吊っていない。まだ使えないが、見た目は普通に戻っている。
「外郭というのは、たいていこうです」
「じゃあ何をしてるんですか、ここ」
「調査研究、となっています」
「ふうん」
ドアには鍵がかかっていた。呼び鈴を押した。反応は無い。三分待って、俺は名刺を郵便受けに入れようとした。
「待ってください」
六花が俺の手を止めた。
「郵便受け、開いてます」
「はい」
「今朝の新聞、入ってないです。取ってる人がいます」
彼女はドアではなく、階段の上を見た。四階は屋上らしい。
「あと、あのプランター、水やったばっかりです」
俺はプランターを見た。土の色が違うと言われれば、そうかもしれない。
「上ですか」
「上です」
屋上に、老人が一人いた。
六十を過ぎている。作業着で、じょうろを持っていた。屋上の半分が、簡易な菜園になっていた。トマトと、何かの葉物。彼は俺たちを見て、じょうろを置いた。
「取材はお断りしてる」
「取材ではありません」
俺が名刺を出そうとすると、六花が前に出た。
「あの、すみません。ここ、財団ですよね」
「そうだが」
「わたし、共栄海上の日野といいます。二週間前に、四層で落ちた者です」
老人の手が、止まった。
「……ああ」
「あ、知ってるんですね」
「調査委員会の資料が、うちにも回る。回るだけだがな」
「じゃあ、話が早いです」
六花は、そこで一歩だけ横にずれた。相手の利き手の側だった。癖なのだと思う。
「わたし、書類が読めないんですよ」
「は?」
「読めないんです、ほんとに。約款とか、通達とか、全部だめで。だから、書いた人に直接聞きに来ました」
老人は、しばらく彼女を見ていた。
「……嬢ちゃん。それは、そっちの背広に言わせる台詞だ」
「この人が言うと、開示請求になるんです」
老人が、初めて笑った。
名前は、宗方克巳といった。七十二歳。財団の非常勤研究員。その前は、共栄海上ダンジョン保険の査定課長だった。
俺は、この人の名前を社史で見た事がある。二十年前の支払部門の再編について、二行だけ書かれていた。功績としてではなく、組織図の変更として。
人が一人辞めても、社史には組織図しか残らない。残らないから、五年目の査定人は、自分が最初の一人だと思い込む。
屋上には、風が通っていた。トマトの支柱が、丁寧に結んであった。結び目の形に、見覚えがあった。六花が縄を結び直した時と、同じ形だった。
「二十年前まで、うちにいらしたんですね」
屋上の隅に、折りたたみの椅子が三つあった。俺たちはそこに座った。日陰は無かった。
「五十二で辞めた」
「理由を伺えますか」
「言う必要があるか」
「あります。二十年前に、あなたが最初に気づいたと聞きました」
宗方の手が、椅子の肘掛けを掴んだ。
「……誰に聞いた」
「蓮見冴子部長です」
「冴子ちゃんか」
彼は、そう言った。言ってから、自分の言い方に苦い顔をした。
「あいつ、まだ査定にいるのか」
「先月、更迭されました」
「……そうか」
「あなたが引き継がせた件です」
宗方は、しばらく黙っていた。トマトの葉が、風で少し動いた。
「引き継がせたんじゃない。押しつけたんだ」
彼は言った。
「俺は逃げた。逃げて、二十年、ここでトマトを作ってる」
「宗方さん」
「なんだ」
「様式を作った人間が、いるはずです」
俺は鞄から、記載要領の三枚目を出した。右下の番号が見えるように置いた。
宗方は、それを見た。見た瞬間に、目の焦点が変わった。
「……どこで手に入れた」
「クランからです」
「クランに配られてるのか」
「五年前から」
彼は要領を手に取った。持つ手が、少し震えていた。
「そうか。……そこまで行ったか」
「ご存じの物ですか」
「知ってる。これの元になった様式を、俺は知ってる」
彼は三枚目の右下を指でなぞった。
「この番号の頭六桁は、機構の内部様式の体系だ。うちが機構と再保険の話を始めた年に、向こうの様式が一斉に振り直された」
「二十年前ですか」
「そうだ」
「その時、あなたは機構に出向されていましたね」
「二年だけな。保険会社から一人出せと言われて、俺が行った」
宗方は要領をテーブルに置いた。
「言っておくが、俺が作ったんじゃない」
「では、誰が」
「機構の、当時の担当課長だ」
「お名前は」
「言わん」
即答だった。
「宗方さん」
「言わんと言ったら言わん。あんた、名前を聞いてどうする」
「会いに行きます」
「会ってどうする」
「様式を作った理由を聞きます」
宗方は、乾いた声で笑った。
「理由を聞いて、納得すると思うか」
「思いません」
「じゃあ何のために聞く」
「聞かないと、書けないからです」
彼は笑うのをやめた。
「……書く、か」
「はい」
「あんた、何を書く気だ」
「査定書です」
俺は答えた。それ以外に答えようがなかった。
「私は査定人です。事故が事故かどうかを書きます。書くには、誰がどの順番で何をしたかが要ります」
宗方は、しばらく俺の顔を見ていた。それから、椅子から立ち上がって、菜園のほうへ行った。じょうろを持ち上げて、また置いた。
「様式には、番号がある」
背中を向けたまま、彼は言った。
「一号から順に振られる。事故報告に関する様式は、七号だ」
「第七号様式」
「そう呼ばれてた。二十年前、俺が反対した時のやつは、まだ第七号の一次案だった」
「反対されたんですか」
「した。発生日の欄を落とす案が出てたからだ。俺は、あの欄だけは残せと言った」
俺は手帳を開いた。
「なぜ、そこにこだわられたんですか」
宗方は、答えなかった。答えずに、菜園の柵の向こうを見ていた。ビルの隙間から、湾のほうが少しだけ見える。
「あんた、名前は」
「鵜飼です」
「下は」
「鵜飼遼です」
彼の肩が、一瞬だけ動いた。振り返らなかった。振り返らないまま、彼は言った。
「……帰ってくれ。今日は、もういい」
「宗方さん」
「帰れと言ってるんだ」
俺と六花は、階段を降りた。踊り場のプランターの前で、俺は一度立ち止まった。
土は、確かに濡れていた。この人は毎朝ここへ来て、水をやって、屋上でトマトを作っている。二十年、そうしてきた。
逃げた人間の二十年というのは、たぶんこういう形をしている。何もしていないわけではない。毎日きちんと何かをして、その全部が、辞めた日の続きになっている。
俺は自分の五年を思った。まだ短い。短いが、同じ形になりかけている気はした。
降りながら、六花が小さな声で言った。
「鵜飼さん」
「はい」
「あの人、最後の、嘘ですね」
「どこがですか」
「今日はもういい、ってとこ。あれ、また来いって意味です」




