第18話:その再保険、機構が引き受けていますね
三日後の午後二時、部長室は無人だった。
机の上は片づいていた。ペン立てが一つ、書類受けが一つ。書類受けは空だ。この人は、机に物を残さない。
右の下の引き出しに、鍵穴があった。俺は、その前に立った。二十分立っていた。
引き出しを開ける事は、就業規則第二十条に触れる。懲戒解雇の事由に該当する。取り出した物は、その時点で証拠能力を失う。裁判で使えば、こちらの手続きの瑕疵として突かれる。それは分かっていた。分かっていて、二十分かかった。
俺は鞄から紙を出して、机に置いた。
開示請求書だった。宛先は査定部長。請求者は俺。請求の対象は、探索者団体契約に係る再保険契約書および付随する覚書の一切。理由の欄には、一行だけ書いた。
——支払いの根拠を、私以外の人間が読める形で残すため。
俺は署名して、日付を入れて、部長室を出た。
午後四時、内線が鳴った。
「上がってきなさい」
部長室に戻ると、蓮見は机の前に座っていた。開示請求書は、彼女の手元にあった。
「開けなかったのね」
「開けませんでした」
「なぜ」
「開けたら、この件が私の犯罪になります。犯罪になると、書類の話が私の話に変わります」
蓮見は請求書を、指で一度だけ叩いた。
「二十年前の私は、開けたわ」
俺は何も言わなかった。
「引き出しじゃないけれど。当時の課長の机から、写しを一部持ち出した。それが調査で問題になって、私の主張は全部『手段が不当』で片づいたの」
「そうでしたか」
「三か月で終わったと言ったでしょう。三か月のうち二か月半は、私の手続きの話だった」
彼女は椅子を引いて、立ち上がった。そして、右の下の引き出しの鍵を開けた。
中に入っていたのは、青いファイル一冊だった。厚くはない。二十枚もない。彼女はそれを、机の上に置いた。
「読みなさい」
「よろしいんですか」
「開示請求に応じているだけよ。手続きどおりでしょう」
俺は椅子に座って、ファイルを開いた。表題は、こうだった。
——探索者団体傷害保険に係る再保険特約(新層特約)
七年前の日付。当社と、迷宮災害共済機構との間の契約書。三ページ目に、引受条件が並んでいた。
発生から三十日以内の新層で発生した事故については、機構が損害の全額を引き受ける。通常の再保険の引受割合は八割だが、この特約では十割になる。
俺は指を止めた。その下に、条件が一つだけ書いてあった。
——ただし、当該事故に係る事故報告書が、安発第百四十七号に定める様式により作成されている場合に限る。
俺は、その行を三度読んだ。
「……部長」
「読めたわね」
「要領どおりに書かれた事故だけが、機構に全額付け替えられます」
「そうよ」
「うちは、一円も痛みません」
「痛まないわ」
俺はファイルを閉じずに、そのままにした。全部が、一本になった。
六年前、発生日の欄が消えた。七年前、様式に沿って書かれた事故だけを全額引き受ける再保険が結ばれた。五年前、その様式どおりに書くための要領が、クランに配られた。
様式どおりに書けば、保険会社は査定をしなくなる。査定をしなくなれば、事故はいくらでも作れる。配ったのは、査定をさせたくなかった側だ。
「十五件を早く通したのは」
「全額戻るからよ」
「戻るから、見なかった」
「見る理由が無かったと言ったほうが正確ね。うちの損失はゼロ。争えば費用が出る。争わなければ出ない。査定の手引きどおりよ」
「その手引きは、あなたが書きました」
蓮見の眉が、初めて動いた。
「……あの冊子、まだあるの」
「あります」
「捨てなさい」
「捨てません」
彼女は少し笑った。笑ってから、真顔に戻った。
「鵜飼くん。今から言う事は、記録しなさい」
俺は手帳を開いた。
「この特約に、私は反対したわ。七年前、当時の私は課長だった。反対の意見書を出して、通らなかった。意見書は残っている。……このファイルの、いちばん後ろよ」
俺はページをめくった。二枚の意見書があった。日付は七年前。筆跡は、あの几帳面な字だった。
「反対の理由は」
「査定をしない仕組みは、いつか査定をされたくない人間に使われる、と書いたわ」
「そのとおりになりました」
「そうね」
彼女は窓のほうを向いた。
「それ以来、私は査定を早く通す部長になったの。反対して負けた人間が、負けた仕組みの中でいちばん上手に泳ぐ。……よくある話でしょう」
「よくある話です」
「慰めないのね」
「慰める材料がありません」
その日の夕方、鑑定の結果が出た。縄の芯は、刃物で切られていた。切断の時期は、使用の一日から三日前。人為である事は疑いがない。
管理番号を、機構の貸与品台帳と照合した。十二桁のうち、頭の四桁が、うちの本社の払い出し番号ではなかった。機構が立入用に貸与する装備の番号体系だった。本社は、機構から借りたものを、そのまま支社へ回していた。
誰が触ったかは、まだ分からない。ただ、触れる場所にいたのが誰かは、これで決まった。
翌日、六花が退院した。三角巾のまま、課に出てきた。
「休んでいてください」
「休んでました。二日も」
「八週間です」
「八週間座ってたら、書類読めるようになりますか」
「なりません」
「じゃあ来ます」
彼女は自分の机に座って、俺が積んでおいた書類の束を見た。17件の事故報告書。うち一件は、二年前の第五層。
「これ、書き直しですか」
「再作成です。返還請求の資料として、当時の記載を正す必要があります」
「わたし、当事者ですよ」
「当事者の記載が必要です」
六花は、しばらくその一枚を見ていた。それから、右手でペンを取った。
「あの日、いちばん下にいたのは、門脇っていう子です。十九でした」
俺は何も言わずに、手帳を開いた。
「三人ぶらさがって、支点が持たなくて。……わたし、いちばん下の縄を切ったんです」
「はい」
「マニュアルどおりです。いちばん下が、いちばん助かる見込みが低いから」
「はい」
「誰にも責められませんでした」
彼女はペンを持ったまま、動かなかった。
「二年前の報告書、わたしの名前で出てます。でも、切ったって書いてないんです。『支点の破断により一名が落下』って。それだけ」
「誰が書きましたか」
「アルゴスの事務です。わたしは、直してくださいって言えなかった」
「なぜですか」
「怖かったからです」
六花は、そこで初めてこちらを見た。目が濡れていた。現場では絶対に見せない顔だった。
「切ったって書いたら、わたしがあの子を殺したって、書類に残るじゃないですか」
「残ります」
「……はっきり言いますね」
「事実なので」
俺は、その次を言うのに少し時間がかかった。
「ただ、書かないと、あなたが二人を助けた事も残りません」
六花は、ペンを紙に置いた。書き終えるまで、四十分かかった。字は斜めだった。それでいいと思った。
三日後、蓮見冴子は更迭された。
彼女が自分で監査部に持ち込んだ。再保険特約の引受条件、七年前の反対意見書、8件の決裁。全部を揃えて、自分の名前で出した。処分は降格と、査定部からの異動。
支社に荷物を取りに来た日、彼女は俺の机の前で足を止めた。
「これで、二十年前の分は終わりよ」
「終わっていません」
「終わったの。私の分は」
彼女は鞄を持ち直した。
「あとは、あなたの分ね。……機構に行くなら、鳥飼さんに会う事になるわ」
「鳥飼」
「理事の一人よ。安発第百四十七号の改正を通した時の、担当理事」
彼女はエレベーターの前で、一度だけ振り返った。
「鵜飼くん。あの人に会ったら、名前を名乗る前に相手の顔を見なさい」
「なぜですか」
「……理由は、私にも分からないの」
機構が守っているのは、七年前の契約書ではありません。もっと前の、別の何かです。




