第17話:二十年前も、同じことを言った人がいた
本社の十四階は、支社と音が違う。
電話が鳴らない。人が走らない。全員が、自分の席で静かに何かを決めている。支社は事故が来る場所で、本社は事故が数字になったあとの場所だ。
蓮見冴子は、前回と同じ小さな会議室にいた。今日は座っていた。
「懲戒の話から」
彼女はファイルを開いた。
「けん責が一つ。理由は、社の名で行うべき手続きを個人で準備した事。処分は来週出るわ」
「分かりました」
「反論しないの」
「事実なので」
「反論はしなさい。しないと、次に重いのが来た時、前例になる」
「反論の書き方を教えていただけますか」
蓮見は、少しだけ目を細めた。
「……本当に、そういう人ね」
「はい」
「二枚目」
彼女は次のファイルを開いた。
「日野さんの労災。認定は問題なく通るわ。ただ、業務上の負傷としての処理と、事故原因の調査は別よ」
「縄です」
「聞いているわ」
「支給品の縄の芯が、三分の一だけ刃物で切られていました。外被は残してあります。荷重がかかった時にだけ切れる細工です」
「鑑定は」
「外部に出しました。結果は三日後です」
「うちの調査部を通していないわね」
「通していません」
「なぜ」
「その縄の払い出し元が、本社だからです」
蓮見は、ファイルを閉じた。閉じる音が、はっきり鳴った。
「あなた、今、私を疑ったわね」
「疑っています」
彼女は俺を見た。長く見た。
「はっきり言うのね」
「言わないと、次の質問ができません」
「私だったら、どうするの」
「証拠を集めて、返還請求の相手にあなたを追加します」
しばらく、誰も何も言わなかった。空調の音がした。本社の空調は、支社より静かだ。
「鵜飼くん」
「はい」
「私は、日野さんに死んでほしくなかった」
「では、なぜ一人で行かせたんですか」
「一人で行かせなければ、あなたが行ったからよ」
俺は言葉に詰まった。
「機構の条件を読んだでしょう。査定人資格を有する者の立入は認めない。あの条件を出した時点で、向こうはあなたを名指ししている」
「はい」
「あなたが規程を捻じ曲げて降りるのを、私は止められない。止めたら、あなたは別の方法で降りる。……だから、降りられない形にしたの」
彼女は指を組んだ。組み方が、榛原と似ていた。この業界の人間は、みんな同じところで手を組む。
「結果として、彼女が落ちた。これは私の判断の失敗よ。逃げないわ」
「逃げないと言われても、肩は治りません」
「治らないわね」
彼女は否定しなかった。この人は、否定できる場面でも否定しない。
「部長」
「なに」
「二十年前の話を、聞かせてください」
蓮見の手が、止まった。
「関係ないでしょう」
「関係あります。あなたは前回、二十年前の私も同じ事を言った、とおっしゃいました」
「言ったわね」
「言った人が、二十年後に、その言葉を言う側を止めています」
彼女は窓の外を見た。十四階からは、湾のほうまで見える。
俺はこの人の経歴を、社内報の範囲でしか知らない。入社二十五年。査定一筋。三十九で課長、四十四で部長。女性の部長は、この会社で二人目だ。二人目という事は、一人目がどう扱われたかを見て、この人は二十年を選んできたという事でもある。
窓の外を、船が一隻、ゆっくり動いていた。
「二十七の時に、私は同じ形の書類を見つけたの」
「同じ形」
「違う会社から出た三件の請求書が、同じ枠だった。項目の並びも、余白も同じ。あなたが見つけたものと、たぶん同じ種類のもの」
「上げましたか」
「上げたわ。課長に、部長に、審査部に」
「どうなりましたか」
「調査が入って、三か月で終わったわ。結論は『様式の類似は業界慣行の範囲内』。私は関西に飛ばされて、四年で戻ってきた」
彼女は、そこで一度、息を吐いた。
「戻ってきた時、私は決めたの。二度と一人で上げない、と」
「一人で上げない、というのは」
「潰される形で上げない、という意味よ」
彼女はこちらを向いた。
「二十年前も、同じ事を言った人がいた。その人は、私じゃない。私の上にいた課長よ。その人が最初に気づいて、私が引き継いだ。その人は五十二で辞めて、今どこにいるか私は知らない」
俺は手帳に、その事を書いた。書きながら、指が冷たくなった。
二十年というのは、査定人が二人ぶん入れ替わる長さだ。気づいた人間が潰され、次に気づいた人間が黙り、その次に気づいた人間が俺だという事になる。仕組みは人より長く生きる。それが仕組みの唯一の取り柄で、いちばん質の悪いところだった。
二十年前に、同じ形の書類があった。六年前に、欄が消えた。五年前に、要領が配られた。この件は、俺が思っていたより、ずっと長い。
「部長。あなたは、なぜ八件を通したんですか」
「早かったからよ。前にそう言ったわ」
「それは、通した理由です。通せた理由ではありません」
蓮見は、少しだけ笑った。
「……本当に、生意気ね」
「はい」
「通せたのは、うちがほとんど痛まないからよ。八割は再保険で戻る」
「再保険の引受先は、機構です」
「そうよ」
「なぜ、七年前に機構へ集約したんですか」
「安かったから」
「安い理由は」
「聞かなかったわ」
彼女は、そこで初めて視線を落とした。
「二十七の私なら、聞いたでしょうね」
俺は立ち上がった。
「部長。再保険の契約書を、見せていただけますか」
「権限が無いわ」
「あなたにはありますね」
「あるわ」
「では、お願いします」
蓮見は答えなかった。答えずに、椅子を回して、自分の机のほうを見た。ここは会議室で、彼女の机は廊下の先の部長室にある。
「鵜飼くん」
「はい」
「私の机の、右の下の引き出しは、鍵がかかっているの」
俺は動かなかった。
「二十年、開けなかったわ。開けたら、たぶん今の私が全部壊れるから」
彼女は立ち上がって、ドアの前まで行った。
「あなたの処分は来週出る。出たら、あなたはこの会社に一週間は残る。……一週間しか残らないかもしれない」
「部長」
「三日後の午後、私は監査の会議で二時間、席を外すわ」
彼女はドアを開けた。廊下の光が入ってきた。
「それだけよ」
俺は会議室に一人で残った。
三日後の午後、二時間。彼女はそう言った。鍵のかかった引き出しがあり、その鍵をどうしろとは言わなかった。開けろとも、開けるなとも言っていない。
この人は、一度も嘘をつかない。ただ、自分から言わない。今のも同じだ。言わないまま、こちらが動く余地だけを残していく。
二十年前、この人は一人で上げて、四年を失った。今、同じ物を持っているのは俺だ。
俺は手帳を開いて、その日付を書いた。書きながら、自分がこれから何をするつもりなのかを、初めてはっきり考えた。
部長席の引き出しを開ける事は、社内規程に違反する。就業規則にも触れる。見つかれば、けん責では済まない。
それでも、書類は引き出しの中にある。引き出しの外にあるものを、俺は五年間、全部見てきた。
廊下に出ると、窓の外はもう暗かった。十四階から見る街の灯りは、支社の四階から見るのと同じ数だけ並んでいた。




