第16話:発生日の欄が、空欄なんです
六花の左肩は、鎖骨の骨折だった。肋骨が二本。全治八週間。
病室は四人部屋で、彼女は窓際にいた。三角巾で腕を吊ったまま、俺が持ってきた書類を睨んでいた。
「これ、わたしが書くんですか」
「本来はそうです」
「本来は」
「書けますか」
彼女は右手でペンを持って、五分粘って、置いた。
「無理です。字が斜めになります」
「では、私が書きます」
「代筆って、いいんですか」
「本人の口述を、代筆者が記載する。様式の裏に書いてあります」
六花は天井を見た。この人も、困ると天井を見る。
「じゃあ、お願いします」
俺は椅子を引いて、書類を膝に乗せた。
六花の口述は、正確だった。時刻、位置、支点の種類、荷重の順番。専門用語をひとつも使わずに、必要な事だけを言う。書く側からすると、こういう証言はありがたい。
「日野さん、記憶がはっきりしすぎてませんか」
「探索者は、落ちる時のことは全部覚えてるんです」
「そういうものですか」
「そういうものです。忘れられたら、みんなもう一回潜れます」
労働災害の事故報告書。うちの社内様式ではない。探索者の労働災害は、業界共通の様式を使う。作っているのは、迷宮災害共済機構だ。
この書式を、俺は五年で何百枚も読んできた。書くのは、初めてだった。書き始めて、五分で手が止まった。
「鵜飼さん?」
「……いえ」
「止まってますよ」
「止まっています」
俺は様式の三枚目を見ていた。事故態様の欄。その下に、記入上の注意が小さく刷ってある。
——(注)迷宮発生日は、記載を要しない。
俺は何度か読み直した。読み直しても、文は変わらなかった。
「六花さん」
「はい」
「発生日の欄が、空欄なんです」
「……そりゃ、まだ書いてないからじゃ」
「書かなくていいと、様式に書いてあります」
彼女は、しばらく黙っていた。
「それって」
「はい」
「じゃあ、今まで見てきた空欄って、全部」
「不備ではありません」
俺は書類を膝の上で揃えた。揃えても、気分は良くならなかった。
「規定どおりです。書かなくていいから、書いていない。十七件も、四十三件も、全部です」
五年間、俺は同じ場所を見てきた。見て、空欄だと確認して、不備だと書いて、それでも通してきた。不備は減点にならない。減点にならない項目は、査定では争えない。
俺は自分が、書式の外側で戦っていたつもりでいた。実際には、書式の内側でしか戦っていなかった。書式が「見なくていい」と言った場所を、俺は五年間、見た気になっていただけだ。
「鵜飼さん」
「はい」
「顔、やばいですよ」
「元からです」
「元からじゃないです」
彼女は右手を伸ばして、俺の膝の上の書類を指で叩いた。
「それ、誰が作ったんですか」
「機構です」
「じゃあ、機構に聞けばいいじゃないですか」
「聞きます」
「今すぐ?」
「今すぐです」
俺は病院の廊下で電話をかけた。三回たらい回しにされて、四人目でようやく担当につながった。
「様式の記入上の注意についてのお問い合わせですね」
「はい。迷宮発生日の記載を要しないと書かれています。理由を教えてください」
「様式の運用は、通達で定めております」
「通達番号を教えてください」
少し間があった。
「……お調べします。折り返しでよろしいですか」
「待ちます」
「あの、けっこう古い通達かもしれませんので」
「待ちます」
七分待った。
「お待たせしました。安発第百四十七号です。改正が三度入っております」
「最新の改正はいつですか」
「六年前です」
「その改正で、何が変わりましたか」
また間があった。今度は長かった。
「……発生日の記載を要しない、という一文が、その時に入っています」
俺は廊下の壁に、手をついた。
窓の外で、救急車が入ってきた。回転灯だけ点いていて、音は鳴っていない。病院の敷地に入るとサイレンを切る決まりがある。決まりは、たいてい誰かのために作られている。
通達も同じだ。誰かのために作られる。問題は、その誰かが誰かという事だけだった。
「六年前に、入った」
「はい」
「それ以前は、記載が必要だったという事ですか」
「そういう事に、なりますね」
「なぜ、変えたんですか」
「通達の理由までは、こちらでは」
「所掌ではない、という事ですか」
「……はい」
俺は礼を言って、切った。
通達というのは、法律ではない。国会も通らないし、官報にも載らない事がある。決めた側が決めた形で下ろし、下ろされた側が様式を刷り直す。それだけで、業界の全員が同じ欄を見なくなる。
法律を変えるには何年もかかる。欄をひとつ消すのは、たぶん一日で済む。
病室に戻ると、六花が身を乗り出していた。三角巾のまま乗り出すので、痛そうだった。
「どうでした」
「六年前に、書かなくていい事になりました」
「六年前」
「はい」
「アルゴスが要領を受け取ったのが、五年前ですよね」
俺は彼女を見た。その順番を、俺はまだ口に出していない。
「六花さん」
「はい」
「今、それを自分で並べましたね」
「並べましたけど。……あ」
彼女は自分の口を、右手で押さえた。
「わたし、書類読めないのに」
「読めています」
「読めてないですよ。今のは順番の話です」
「査定は、ほとんど順番の話です」
俺は椅子に座り直した。
六年前、発生日は書かなくていい事になった。五年前、事故の書き方の要領が、差出人不明の封筒で配られた。その後の五年で、アルゴスは17人を出した。
欄を消してから、書き方を配る。順番が合っている。合っているという事は、偶然ではないという事だ。
「鵜飼さん。それ、誰がやったんですか」
「通達を出せる人間です」
「誰ですか」
「機構の、上のほうです」
俺は手帳を開いた。
3億の案件から始まった。榛原が要領を使っていた。要領は誰かが配った。配れる人間は、様式を決める側にいる。様式を決める側は、六年前に欄を消した。
全部が、同じ一点を向いている。
その時、俺の携帯が鳴った。本社の番号だった。
「蓮見です」
「部長」
「日野さんの容態は」
「全治八週間です。命に別状はありません」
「そう。……良かったわ」
良かった、という言葉に、嘘は無かった。俺はそう聞こえた。
「鵜飼くん。明日、本社に来なさい」
「用件を伺えますか」
「日野さんの労災の話と、あなたの処遇の話」
「処遇」
「懲戒の手続きが始まっているの。告発状を、支社長決裁を経ずに準備した件」
俺は廊下の窓を見た。夕方だった。
「分かりました」
「もう一つ」
彼女は、そこで少しだけ声を落とした。
「縄は、持って帰ったのね」
俺は、その質問に答えなかった。答えなかった事が、答えになった。




