第15話:わたし、書類は読めないんで
この回だけ、日野六花の視点でお送りします。
朝の六時は、ダンジョンがいちばん静かな時間だ。
昇降機の前で、機構の立会二人と合流した。片方は四十くらいの男で、もう片方は二十代。二十代のほうが、わたしの装備を見て眉を上げた。
「保険屋さんが、そんなに歩けるんですか」
「歩けますよ」
「無理はしないでくださいね。うちの責任になるので」
この言い方、久しぶりに聞いた。探索者をやめてから、わたしはずっと、こう言われる側になった。言い返さないのが大人だと、鵜飼さんなら言うと思う。鵜飼さんは言い返すけど。
第四層は、二回目だ。一回目は、背広の男を連れて降りた。あの人は岩棚で滑って、縄が張って、それでも手帳を落とさなかった。あの時から、わたしはこの仕事を辞めるのをやめた。
今日の目的は、事故現場の岩の割れ口を撮る事。あとは、通路の照明の間隔を測る事。それだけだ。
降りながら、四十代のほうが話しかけてきた。
「日野さん、元はどちらに」
「アルゴスです」
二十代の足が、一瞬止まった。
「……アルゴスって、今、揉めてるとこですよね」
「揉めてますね」
「保険屋に転職して、古巣を調べてるんですか」
「調べてるのは、うちの査定人です。わたしは荷物持ちです」
「荷物持ちが、わざわざ四層に降りますか」
「降りますよ。荷物、重いんで」
四十代が笑った。二十代は笑わなかった。
この二人、上と下でだいぶ違う。四十代は現場に降りた事がある歩き方をしていて、二十代はしていない。歩幅で分かる。
「ここです」
現場は、前と同じ場所にあった。斜めに落ちた岩。掃かれた床。
わたしは膝をついて、割れ口に定規を当てた。写真を撮る。三枚。角度を変えて、もう三枚。鵜飼さんに言われた。三枚では足りない事があるから、六枚撮れ、と。理由は聞かなかった。あの人が数える人だから、数えられるように撮るんだと思う。
「日野さん。そろそろ」
二十代が、腕時計を見た。
「まだ二十分です」
「上で会議があるので」
「じゃあ先に上がってください。わたし、あと三十分——」
音がした。
音というより、下から突き上げてくる感じだった。足の裏から膝に来て、それから耳に届く。
崩落だ。
わたしは考えなかった。考える前に、体が動いた。三人分の縄を一本にまとめて、通路の壁の支点に掛ける。支点は、機構が打った金具だ。信用していいかは分からない。他に無いから使う。
「掴んで!」
床が抜けた。
落ちる感覚は、いつも思ったより長い。落ちながら、わたしは自分の体重と、二人分の体重と、金具一本を頭の中で並べた。並べたのは、一秒もかからなかった。探索者は、それだけは速い。
縄が張った。
三人がぶら下がった。上に金具、下に暗闇。四十代が真ん中で、二十代が下。わたしがいちばん上だ。
金具が、鳴った。
「なんだこれ、なんで、なんで崩れるんですか!」
「二十代の人、名前は」
「え」
「名前」
「……篠原です」
「篠原さん。今から言う事だけやってください。足を止める。腕は伸ばす。顔は上げない」
「上げたら」
「首が疲れます。あと、下を見ないで済みます」
「日野さん、あなた、なんでそんなに——」
「動かないで!」
わたしは怒鳴った。二十代が足をばたつかせていた。ばたつかせると、荷重が跳ねる。跳ねると、金具は一発で抜ける。
「日野さん、これ、持ちます?」
「持ちません」
「え」
「三人は持ちません。二人なら持ちます」
「じゃあ、どうするんですか」
「一人減らします」
「減らすって、そんな」
「四十代の人。名前は」
「……宮下です」
「宮下さん。あなた、現場に降りた事ありますよね」
「二十年前に、少しだけ」
「じゃあ分かりますよね。今の音」
少しの間があった。
「……分かります」
「篠原さんを上げてください。上から順に。わたしの合図で」
「日野さん」
「はい」
「あなたが、いちばん上ですよ」
「知ってます」
言ってから、自分の声が落ち着いている事に驚いた。二年前も、こうだった。あの時も、わたしの声は落ち着いていた。落ち着いたまま、わたしは間違えた。
あの時、わたしは自分の縄を切らなかった。切らずに、いちばん下の子の縄を切った。判断としては正しかった。いちばん下が、いちばん助かる見込みが低かったから。マニュアルにもそう書いてある。誰にも責められなかった。
誰にも責められなかったから、二年間、誰にも会えなかった。
わたしは腰のナイフを抜いた。
「日野さん、何を——」
「上の二人、絶対に手を離さないでください」
「待って、あなた」
「わたし、書類は読めないんで」
わたしは笑った。たぶん、笑えていた。
「命の数だけは、一回で数えられます」
自分の縄を切った。
落ちる。
三メートルか、四メートル。下は瓦礫の斜面で、そこを滑って、また落ちて、肩から何かに当たった。止まった。
息が半分抜けていた。左肩が動かない。血の味がした。舌を切ったらしい。上のほうで、金具は鳴っていなかった。二人分なら、持つ。計算どおりだ。
暗かった。腰の後ろの照明を手探りで点けた。点いた。鵜飼さんに説明したとおりの場所にあった。わたしは笑った。今度は本当に笑った。
照明を持ち上げて、周りを見た。瓦礫と、岩と、それから——切れた縄の端が、わたしの腰から垂れていた。
切ったのはわたしだ。それは分かってる。ただ、切り口が、二つあった。
わたしがナイフで切った断面は、繊維が斜めに割れている。乱暴で、汚い。それでいい。ナイフで切るとそうなる。
もう一つの断面は、まっすぐだった。
芯の三分の一だけが、刃物でまっすぐ切られていた。外側の被覆は残してある。だから、見た目では分からない。荷重がかかれば、そこから切れる。かからなければ、切れない。
わたしは、その端を握った。握って、しばらく動けなかった。肩が痛かった。それとは別のところが、寒かった。
上から、声が降ってきた。
「日野さん! 日野さん、聞こえますか!」
「聞こえます」
「無事ですか」
「肩がだめです。あと、たぶん肋骨」
「動かないで、今すぐ——」
「動きません。そっちこそ動かないでください。金具、まだ一本です」
「……はい」
「あと、上がったら真っ先に、うちの鵜飼に電話してください。番号、控えてますよね」
「今、それどころじゃ」
「それどころなんですよ」
わたしは天井のほうへ、声を張った。肋骨が鳴った。
「言ってください。縄を持って帰る、って。それだけでいいです」
救助は、四十分後に来た。担架に乗せられて、昇降機まで運ばれて、地上に出た。空が明るかった。朝の六時に降りて、十一時だった。
入口の外に、人が立っていた。背広だった。
鵜飼さんは、担架の横に来て、わたしの顔を見て、それから左肩を見た。何も言わなかった。
「鵜飼さん」
「……はい」
「怒ってます?」
「怒っています」
「顔に出てないですよ」
「出ていません」
あの人の手が、少しだけ震えていた。震えは遅れて来るんだと、前に言っていた。
わたしは右手を上げた。握ったままの、縄の端を見せた。
「これ、番号控えてましたよね」
「控えました」
「じゃあ、呪い、効かなかったですね」
鵜飼さんは、縄の端を受け取った。受け取って、切り口を見た。二つある切り口を、順番に見た。
それから、初めて声を出した。
わたしが二年間、一度も聞いた事のない大きさの声だった。




