第9話「新しい場所」
子爵家に戻ってから、一週間が過ぎていた。
エリザは実家の自室で、これまでとは違う種類の時間を過ごしている。
朝、目を覚ましても、誰かの帰りを待つ必要はない。
夜、寝台に入っても、明日の帳簿のことを考えて眠れなくなることもない。
ただ、その静けさの中に、彼女はどこか落ち着かないものを感じてもいた。
ある朝、エリザは庭に面した回廊をゆっくりと歩いている。
アルテア家の庭園とは違い、実家の庭は華美な設えを避け、木々の自然な佇まいを活かした造り。
幼い頃、兄のレオンと共に駆け回ったこの場所を、彼女はしばらくぶりにじっくりと眺めていた。
「ずいぶん、伸びたわね」
彼女はふと、庭の隅にある大きな樫の木に目を留める。
子供の頃はまだ細かった幹が、今ではすっかり太く逞しくなっている。
時の流れというものを、こんな些細なことからでも感じ取れるのだと、エリザは思った。
回廊の先で、庭師の老人が生垣の手入れをしている。
エリザに気づくと、彼は帽子を軽く持ち上げて会釈した。
「お嬢様、朝のお散歩ですか」
「ええ。少し体を動かしたくて」
「近頃はお顔の色がよろしいようで、安心いたしました」
その言葉に、エリザは小さく微笑む。
アルテア家にいた頃、こうして気軽に声をかけてくれる者はあまり多くはなかった。
ここでは誰もが彼女を「有能な支え手」としてではなく、ただの「お嬢様」として見ている。
それが思いのほか心地よい。
昼下がり、エリザは自室で書物を読んでいた。
何をするでもなく過ごす時間が増えているが、それでも心のどこかに落ち着かない疼きがある。
この一週間ほど、彼女は繰り返し考えていた。
――次に、何をすればいいのだろう。
扉が控えめに叩かれ、兄のレオンが顔を覗かせたのは、そんな午後のこと。
「エリザ、少しいいか」
「ええ。どうしたの?」
レオンは部屋に入ると、いつもよりも慎重な足取りで彼女の向かいの椅子に腰を下ろした。
おそるおそる切り出す様子が、エリザには珍しく感じられる。
兄は普段、もっと率直に物を言う人だった。
「お前の能力をただ埋もれさせておくのは惜しい。父上もそう言っている」
エリザは手にしていた書物を閉じた。
「うちは学術や行政の分野で、多少の人脈がある。金融面でもそれなりの信用を築いてきた。……そこでな」
レオンは少し言葉を選ぶように間を置く。
「公爵家が領地経営の改革を進めていて、実務に長けた人材を求めているらしい。うちの信用で、非正式な協力者として推薦できる」
エリザはしばらくの間、何も答えない。
公爵家――王家に次ぐ名門で、改革派として知られる家だということは、エリザも耳にしたことがあった。
「いや、無理に働けとは言わない」
レオンは彼女の沈黙を気にしてか、慌てたように付け加える。
「もし気が向いたらという話だ。断ってもいい。お前が今、休みたいと思っているなら、それを優先すべきだ」
その言葉に、エリザはふと兄の顔を見つめた。
かつて「お前なら大丈夫だ」と当然のように彼女に責任を委ねてきた兄が、今はこんなにも気遣わしげに断る選択肢を用意してくれている。
その変化に、彼女は小さな驚きを覚えた。
「少し、考えさせて」
「ああ、もちろんだ。急ぐ話ではない」
レオンはそう言って部屋を出て行った。
一人残されたエリザはしばらくの間、窓の外を見つめ続けている。
その夜、エリザはなかなか寝付けずにいた。
寝台の上で懐中時計を右手で握りしめながら、これまでの日々を思い返す。
深夜の執務室、隣の席を奪われた夜会、外交交渉の端の席――そのすべての記憶の底に、いつも「誰かの都合」があった。
自分の意志で何かを選んだことが、これまでどれほどあっただろうか。
――今度は、自分が納得した上で動く。
そう心の中で呟いたとき、彼女の中で何かがすっと定まった。
翌朝、エリザは朝食の席でレオンにそのことを告げる。
「兄様、昨日のお話、お受けしたいと思います」
レオンは驚いたように顔を上げたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「わかった。すぐに手配しよう」
「ただ……」
エリザは少し言葉を選びながら続ける。
「まずは話だけ聞いてみたいの。何もしないままここに留まっているよりは、新しい場所で自分の力を試してみたいという気持ちもあるから」
レオンはその言葉に深く頷く。
「それでいい。無理にとは言わない。だが……お前がそう思えるようになったなら、それはいいことだと思う」
数日後、レオンの手配により信頼できる商人――エリザも以前から面識のあったハルトマンを通じて、公爵家の側近へと連絡が入れられた。
アレックス・フォン・アーデルハイトは実力主義を公言している改革派であり、家柄よりも能力を重視する方針を持っているという。
子爵家からの推薦であっても、「一度会って話を聞く」との返答が快く寄せられた。
出立の朝、エリザは荷物をまとめながら鏡の前で身支度を整えている。
侍女が丁寧に髪を結い上げながら、少し心配そうな声で尋ねた。
「エリザ様、公爵家というのはずいぶんと格式の高いところと伺っておりますが……」
「大丈夫よ。ただ、話を聞きに行くだけだから」
そう答えながらも、エリザの胸の内には拭いきれない緊張があった。
玄関先まで見送りに来たレオンが彼女の肩に軽く手を置く。
「エリザ、お前なら大丈夫だ」
昔から、兄がよく口にしてきた言葉だった。
エリザは小さく頷き、それ以上その言葉の意味を考えることはしなかった。
「行ってきます」
エリザは馬車に乗り込み、窓越しに兄へと軽く会釈をした。
馬車が動き出し、実家の門が次第に遠ざかっていく。
道中、彼女は膝の上で右手を懐中時計に添えたまま、窓の外に流れる景色をじっと見つめていた。
田園風景が広がり、やがて公爵家の広大な領地を示す境界石が道の脇に姿を現し始める。
――また、同じことの繰り返しになるのだろうか。
答えの出ない問いを、エリザは馬車の揺れに紛れさせるように胸の奥へしまい込んだ。
アルテア家での日々が、まだ完全には過去のものになっていない。
彼女は右手で時計を強く握りしめながら、馬車の揺れに身を任せていた。
やがて馬車は大きな門をくぐり、広大な敷地の中を進んでいく。
整然と手入れされた並木道、遠くに見える領民たちの住まい、そしてその先に堂々と構える公爵家の館。
エリザはその規模の大きさに思わず息を呑んだ。
案内された会議室にはすでに数名の実務担当者たちが集まっている。
皆、地味だが仕立ての良い服装をした、実直そうな面持ちの者たち。
エリザが入室すると、彼らの視線が一斉にこちらへ向けられる。
値踏みするような、あるいは半信半疑といった色を含んだ視線。
上座にはまだ誰も座っていない。
エリザは案内された席に腰を下ろし、資料を受け取った。
しばらくして扉が開き、一人の男性が入ってくる。
部屋に入ってきた男は、名乗るより先に空気を変えた。
話し方に無駄がなく、視線は一人ひとりの顔ではなく、机の上の資料の量をまず確かめているようだった。
装飾のない服装も、それが趣味というより「必要ないから着けない」というだけの合理性に見える。
「彼が――」
エリザは心の中でその名を呟いた。
アレックス・フォン・アーデルハイト。
アレックスは上座に腰を下ろすと部屋を一通り見渡し、それから簡潔に会議の趣旨を説明し始めた。
領地の交易路再構築と帳簿整理に関する現状報告。
声は低く落ち着いており、無駄な言葉が一切ない。
説明を受けた後、資料が各人へと配られる。
エリザはそれを受け取り、頁をめくり始めた。
感情を表に出さず、数字と事実だけを正確に追っていく。
会議室の空気は緊張感を保ったまま流れていく。
周囲の実務担当者たちが時折こちらへちらちらと視線を向けてくるのを、エリザは感じていた。
「子爵令嬢がどこまで分かるか」という無言の疑問がその視線には込められている。
エリザはそれらの視線を気にすることなく、資料の内容に集中し続けた。
交易路の経由地、季節ごとの輸送量、各拠点の在庫状況。
数字の一つ一つを丁寧に追いながら、彼女はそこに潜む小さな綻びを見つけ出していく。
説明が一段落したところで、エリザは手を挙げた。
会議室の空気がわずかに動く。
アレックスの視線が初めて彼女の方へと向けられた。
「失礼ながら」
エリザは資料の一箇所を指し示しながら、落ち着いた声で切り出す。
「こちらの交易ルートの数字に矛盾がございます。このままだと来月には損失が拡大します」
会議室が一瞬にして静まり返った。
エリザはその沈黙の中、具体的な修正案を淡々と述べていく。
経由地の変更による費用の増大、それに対する代替ルートの試算、想定される損失の規模――的確で簡潔な指摘だった。
担当者たちが互いに顔を見合わせる。
誰かが小さく息を呑む音がエリザの耳にも届いた。
上座にいたアレックスが初めて明確な興味を宿した目で彼女を見つめている。
彼の視線はこれまでの値踏みするようなものとは、明らかに質が違っていた。
「君の意見を、もっと聞きたい」
低く落ち着いた声で、彼はそう告げた。
その一言が、思いがけない重さでエリザの胸に響いた。
会議はそれからさらに続いた。
アレックスはエリザの指摘した箇所を中心に、他の担当者たちにも意見を求めながら議論を丁寧に進めていく。
エリザは求められるままに――ではなく、自分の考えを述べ続けた。
誰かに命じられて動くのではなく、自分の判断を求められて口にする――その感覚はこれまで彼女が経験したことのないものだった。
会議が終わり、担当者たちが部屋を出て行った後も、アレックスはしばらくの間、机に残された資料に目を通していた。
エリザも帰り支度をしながらその様子を横目に見ている。
「クレール嬢」
アレックスがふと顔を上げて声をかけてきた。
「今日のところはここまでで構わない。追って正式な話を進めさせてもらう」
「ありがとうございます」
エリザは丁寧に頭を下げた。
アレックスはそれ以上多くを語ることなく、軽く頷くだけ。
無駄のない、簡潔な態度。
会議室を出たエリザは案内係に導かれ、屋敷の一室へと通された。
非正式ながら改革の実務に加わることが決まったとの説明を受け、彼女はそこでしばらくの間、一人になる。
窓辺に立ち、領地を見渡す。
整然と手入れされた畑、遠くに見える鉱山の坑道、行き交う人々の姿。
この景色の中に自分の役割がこれから確かに刻まれていくのかもしれない。
――また道具にされるのでは。
その警戒はまだ完全には消えていない。
だが同時に「意見を求められた」という感覚が胸の奥に小さく、けれど確かに残っている。
それはこれまでの日々の中でほとんど味わったことのないものだった。
エリザは懐から銀の懐中時計を取り出し、右手でそっと蓋を撫でた。
「ここが、新しい場所になるのかもしれない」
その思いを彼女はまだ完全には信じられないでいる。
それでも胸の奥に灯った小さな光は確かに、これまでにない温もりを持っていた。
☆
アルテア家執務室。
ガルドが小さな取引遅延の報告を受け取っていた。
これまではエリザが即日に返信し調整を済ませていた取引確認の手紙が、数日にわたって滞っている。
商人からは丁寧な、しかしどこか困惑を含んだ催促の手紙が届いていた。
「ご回答が遅れておりますが、問題ございませんでしょうか」
その文面をガルドは読み返す。
ブレッドや自分では内容を正確に把握することができない案件だった。
彼は報告書を手にブレッドの部屋へと向かう。
「若様、商人ギルドより確認のご連絡が――」
「ああ、後にしてくれ」
ブレッドは鏡の前で身支度を整えながら、報告を最後まで聞くことなくそう遮った。
「今はレベッカの所に向かう準備があるんだ」
ガルドは報告書を手にしたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
ブレッドはそんな彼の様子には気づかぬまま上着を羽織り、足早に部屋を出て行く。
一人残されたガルドは報告書を閉じ、深く息を吐いた。
眼鏡の位置を指先で直しながら、彼はしばらくの間、動かずにいる。
窓の外では日が傾き始めていた。
遠く離れた公爵家の領地で新しい一歩を踏み出そうとしているエリザのことを、ガルドはまだ知らない。




