第8話「誰も選ばなかった」
夜が明ける前、エリザは一度も深く眠ることのないまま、寝台から体を起こした。
窓の外はまだ薄闇に包まれている。
彼女はしばらくの間その暗がりをぼんやりと見つめていたが、やがて立ち上がり、身支度を整え始めた。
昨夜のうちに整理しておいた荷物は寝台の脇に、すでに小さくまとめられている。
朝の光が差し込み始める頃、エリザは鏡の前に座り自分の顔を見つめていた。
化粧気のない素顔は昨夜よりもさらに表情が少ないように見える。
それでも目の奥にはこれまでにない静けさが宿っていた。
彼女は立ち上がり、部屋を一通り見渡す。
婚約が決まってからこの家で過ごした日々の中で、身の回りに置いていたものは思いのほか少なかった。
壁にかけられた小さな絵、書棚に並んだ数冊の書物、机の上の筆記具――そのどれもがアルテア家で使うために揃えたもの。
エリザは一つ一つを丁寧な手つきで確かめながら、必要なものと残していくものとを分けていく。
華美な装飾品や贈られたばかりの宝飾類には、指先すら触れなかった。
それらはこの家の名前と共にあったべきものだと彼女は判断する。
小さな鞄に必要な衣類といくつかの書類だけを収める。
最後にいつも肌身離さず持っていた銀の懐中時計を右手でそっと握りしめてから、鞄の内側にある小さな隠しにしまった。
そこまで済ませたところで、控えめなノックの音がする。
「エリザ様、失礼いたします」
ガルドだった。
彼はいつもの黒い制服姿で静かに部屋へと入ってくる。
眼鏡越しの目が寝台の脇に置かれた鞄へと向けられた。
彼はしばらくの間その鞄を見つめたまま、何も言わない。
エリザもあえて説明をしなかった。
ガルドがすでにすべてを察しているのがその表情から伝わってくる。
やがてガルドは深く、深く頭を下げた。
「エリザ様。これまで本当にお世話になりました」
その声はいつもの簡潔な口調とは違い、わずかに震えを帯びている。
「エリザ様がいらっしゃらなければ、この家は……」
言葉がそこで途切れた。
ガルドはそれ以上続けることができないよう。
深く下げられたままの頭をエリザはしばらくの間黙って見つめていた。
「ガルドさんこそ、お疲れ様でした」
エリザは心を込めてそう返した。
微笑みを浮かべてはいたが、その声にはこれまでにない温かさが滲む。
ガルドはゆっくりと頭を上げた。
眼鏡の奥の目が、一度だけ強く瞬く。
それ以上、彼は何も言わなかった。
「馬車の準備は整えてございます」
「ありがとう」
エリザは鞄を手に取り、部屋を出た。
ガルドがその後に続く。
二人は無言のまま廊下を歩いていく。
途中、掃除をしていた若い使用人たちが鞄を持つエリザの姿に気づき、手を止めた。
互いに顔を見合わせ、小さくざわめく声が聞こえたが、誰も声をかけてくることはない。
事情を正確に知らされていない彼らにとっては理解の及ばない、しかし何か重大なことが起きている光景だったのだろう。
エリザはその視線の一つ一つに静かに頭を下げながら玄関ホールへと歩を進めた。
玄関の扉が開かれると、朝の冷たい空気が頬に触れる。
庭の木々の葉が微かな風に揺れていた。
用意された馬車が静かにエリザを待っている。
「若様は……」
エリザがふと尋ねると、ガルドは首を振った。
「まだお部屋からお出になっておりません」
その答えにエリザは小さく頷くだけ。
驚きはなかった。
むしろそれが当然のことのように感じられる。
御者が扉を開け、エリザは馬車に乗り込んだ。
座席に腰を下ろし、窓越しにガルドの姿を見つめる。
彼は深く頭を下げたまましばらく顔を上げなかった。
「ガルドさん」
エリザが声をかけると、彼はようやく顔を上げた。
その目には隠しきれない光るものがある。
「どうかお元気で」
「エリザ様も、どうか」
それだけの言葉を交わし、馬車の扉が閉じられた。
車輪が動き出し、屋敷が少しずつ遠ざかっていく。
エリザは窓の外に流れる景色をじっと見つめ続けた。
見慣れた庭園、鉱山へと続く道、幾度となく足を運んだ商人たちの店の並び――そのすべてが後方へと過ぎ去っていく。
屋敷が完全に見えなくなった頃、エリザは息を吐き目を閉じた。
☆
一方、その頃アルテア家では。
遅く目を覚ましたブレッドが寝間着のまま食堂に姿を現したのは、朝もすっかり明けきった頃だった。
彼は欠伸を噛み殺しながら席に着き、いつものように朝食が運ばれてくるのを待つ。
「エリザはまだ休んでいるのか」
給仕の使用人に彼はそう尋ねた。
使用人は一瞬返答に詰まったように視線を泳がせた後、静かに答えた。
「エリザ様は本日早朝、実家の子爵家へお発ちになりました」
ブレッドの手がパンに伸びかけたところで止まった。
「……は?」
「昨夜のうちにそのようにお申し付けがあったとのことで」
ブレッドはしばらくの間言葉を失ったように使用人の顔を見つめていた。
それからゆっくりと状況を飲み込もうとするように目を細める。
「本当に出て行ったのか?」
誰に問うでもなく彼はそう呟いた。
それからふいに肩をすくめ、口元に薄い笑みを浮かべる。
「ま、そのうち『戻らせてほしい』って言ってくるさ。……先に謝ってやってもいいくらいだ」
彼はそう言い残すと何事もなかったかのようにパンに手を伸ばした。
だがその手の動きにはわずかな硬さが残っている。
彼はそれに気づかぬまま、あるいは気づかぬふりをして食事を続けた。
☆
馬車に揺られること半日、エリザを乗せた馬車は昼過ぎに実家である子爵家の門をくぐった。
屋敷の玄関にはすでに兄のレオンが立っている。
長身でエリザと同じ栗色の髪と灰色の瞳を持つ彼は、突然帰ってきた妹の姿に一瞬驚いたように目を見開いた。
馬車が止まりエリザが降り立つと、レオンは足早に近づいてきた。
彼女の手にある小さな鞄といつもと変わらぬ静かな表情を、彼はしばらくの間じっと見つめている。
何かを問いただすことも驚きを露わにすることもなく、レオンはただこう告げた。
「……よく決断したな」
その一言だけで彼がすでにすべてを察していることがエリザには伝わった。
彼女は小さく頷く。
それ以上言葉は必要ない。
レオンは妹の鞄に軽く手を添えて屋敷の中へと促した。
「疲れただろう。まず部屋で休め」
「ありがとう、兄様」
二人は並んで屋敷の中へと足を踏み入れた。
玄関ホールの先、見慣れた廊下の匂いがエリザの記憶を刺激する。
子供の頃何度も駆け抜けたこの廊下。
あの頃はまだ何も背負っていなかった。
案内された自分の部屋――かつて使っていたそのままの姿で残されていた部屋――に入ると、エリザは鞄を床に置き窓辺へと歩み寄った。
窓の外には見慣れた庭園の景色が広がっている。
アルテア家の庭とは違うもっと素朴で飾り気のない景色。
エリザは懐中時計を取り出し、蓋を開いた。
時刻を確かめるためではなかった。
ただ、何か確かなものに触れていたかっただけだった。
「誰も私を選ばなかった」
その事実を、彼女は驚くほど落ち着いて受け止めている。
悲しみよりも不思議なほどすっきりとした感情が胸の奥を満たしていた。
長い間背負い続けてきた重さがようやく地面に降ろされたような、そんな軽やかさ。
「もう誰の都合にも縛られない」
その言葉を彼女は声に出さず、けれどはっきりと自分自身に言い聞かせる。
窓の外では風が庭の木々をわずかに揺らし、遠くで鳥の声が響いていた。
エリザは時計の蓋をそっと閉じ、右手でその冷たい表面を撫でながらしばらくの間ただその場に立ち尽くす。
遠く離れたアルテア家ではブレッドが「どうせすぐ戻ってくるさ」と繰り返し呟いていることなど、彼女は知る由もない。
新しい人生を歩む決意だけが、迷いなく彼女の胸に根を下ろしていった。




