第7話「静かな返上」
馬車が屋敷に着いた頃には、すでに夜も更けている。
エリザは静かに馬車を降り、玄関ホールに足を踏み入れた。
灯りは半分ほどが落とされ、屋敷全体が寝静まりかけている。
出迎えた使用人に「もう休んでいいわ」と告げ、彼女は一人、自室へと続く階段を上っていった。
自室に入ると、エリザはしばらくの間、扉に背を預けたまま動かない。
今日の会談の光景が、まだ鮮明に瞼の裏に残っている。
端の席から見た、宙に浮いたままの資料。
助けを求めるように向けられた視線。
誰にも届かなかった、自分の言葉。
――もう、十分だ。
先ほど胸の中で聞こえたその声を、彼女はもう一度、確かめるように口にしてみる。
声にしてみても、その響きは少しも揺らがなかった。
エリザはゆっくりと部屋を横切り、鏡台の前に腰を下ろした。
侍女はすでに休んでいる時間。
一人で髪を留めていた飾りを外し、丁寧に小箱へとしまっていく。
鏡に映る自分の顔は、化粧が薄れかけていても、いつもと変わらず表情を失っていた。
――今夜中に、終わらせなければ。
その思いだけが、次第に明確な輪郭を持ち始めている。
エリザは立ち上がり、寝台の脇に置かれた淡い色のガウンに袖を通した。
窓の外では、月が雲間から時折顔を覗かせ、庭園の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
彼女はしばらくその光を見つめていたが、やがて部屋を出る。
廊下は燭台の灯りがまばらに残るだけで、ほとんどが闇に沈んでいた。
エリザは足音を立てないよう、慎重に歩を進める。
すれ違う使用人の姿はなく、屋敷全体が彼女の決意を見守るように静まり返っていた。
途中、かつて何度も足を止めた廊下の窓辺を通り過ぎる。
そこは、夜会の後で一人、懐中時計を確かめていた場所。
エリザは一瞬だけ歩みを緩めたが、すぐにまた前を向いて歩き出した。
今はもう、そこで立ち止まっている時間などない。
執務室の前を通り過ぎるとき、扉の隙間からまだ微かな灯りが漏れているのが見える。
ガルドがまだ仕事をしているのだろう。
エリザは足を止め、少しの間その灯りを見つめた。
長年、深夜まで自分の仕事を見守ってくれた人。
その存在に、感謝の気持ちが込み上げてくる。
だが今は、声をかける時ではなかった。
彼女はそっとその場を離れる。
ブレッドの部屋の前まで来たとき、エリザは一度、大きく息を吸い込んだ。
胸の中には不思議なほど波立つものがない。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、これから起こることの重さだけを受け止めている自分がいた。
彼女は右手を上げ、扉を控えめにノックする。
しばらくの沈黙の後、扉の向こうで人の動く気配がし、やがて扉が開いた。
「エリザ?こんな時間にどうした」
ブレッドはまだ寝間着に着替えたばかりのような姿で、驚いたように目を見開いている。
彼の背後の部屋には、燭台の灯りが一つだけ灯っていた。
「お話があります」
エリザは静かにそう告げた。
「今夜の件も含め、すべてを考えた上でのことです」
ブレッドは一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに軽い調子で頷き、扉を大きく開く。
「ああ、入ってくれ。ちょうど僕も、後で説明するつもりだったんだ」
部屋に入ったエリザは、彼の向かいの椅子に腰を下ろした。
ブレッドも寝台の端に腰掛け、少し気まずそうな笑みを浮かべる。
「今日のことは、確かに悪かったと思ってる。急にレベッカを連れて来る形になって。でもどうしても──」
「ブレッド様」
エリザは彼の言葉を遮った。
手元の懐中時計を右手の指先で一度だけ撫でてから、まっすぐに彼を見る。
口にしてしまえば、思っていたよりずっと短い言葉だった。
これまで幾晩も、伝えるべき言葉を頭の中で組み立てては崩してきた。
それなのに、実際に声にしてみるとこれだけで足りてしまう。
「婚約を、返上させてください」
部屋の中に、しばらくの沈黙が落ちた。
燭台の炎が、風もないのに小さく揺れる音だけが聞こえている。
ブレッドは一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。
だがすぐに困ったような微笑みを浮かべ、手を軽く振る。
「急にどうしたんだ?今日は確かにあの場で失礼した。でも、君ならわかってくれると思っていた」
彼の声には、事態の重さを本気で理解しているような色は少しも滲んでいない。
「ちょっと頭が熱くなっているだけさ。一晩寝て、明日になれば落ち着くよ」
エリザは何も答えず、ただ彼を見つめ続けた。
ブレッドはその沈黙を気まずく思ったのか、さらに言葉を重ねる。
「君は優秀なんだから、こんなことで本気になるはずがない」
その言葉が、かえってエリザの決意を固めた。
――優秀だから。またこの言葉だ。
何度、何度この言葉に縛られてきたことだろう。
深夜の執務室で、夜会の隅で、外交交渉の端の席で。
優秀だから平気なはずだと。
優秀だから我慢できるはずだと。
声は大きくなかったが、揺れてもいなかった。
「私はもう、ここにいる必要はありません」
ブレッドの表情から、ようやく余裕の色が薄れ始めた。
彼は椅子から身を乗り出すようにして、慌てた様子で言葉を継ぐ。
「待てよ、そんな……いきなり、何を言い出すんだ」
「今日の会談で、私が用意した資料が誰にも正しく使われませんでした。それが悪いことだとは言いません。ただ――」
エリザは一度、言葉を切った。
胸の奥にある、長い間押し殺してきた思いが、ゆっくりと言葉の形を取っていく。
「私は隣に立つ人間として、この家に必要とされていたわけではなかったのだと、今夜、はっきりとわかりました」
「そんなことはない!君は――」
「大丈夫です」
エリザはいつもの口癖を、今度は違う意味を込めて口にした。
「私があなたの隣に立たなくても、この先、大丈夫だと思います」
ブレッドは何か言い返そうとするように口を開きかけたが、言葉が出てこないようだった。
彼の視線がエリザの顔から机の上の燭台へ、また彼女の顔へと落ち着きなく動いている。
エリザはそれ以上何も言わず、立ち上がった。
椅子がかすかな音を立てる。
「待てよ、話し合おう」
ブレッドが呼びかける声が、背中越しに聞こえる。
エリザは扉に手をかけたところで一度だけ足を止めた。
心の中で、短く、確かに宣言する。
――もう十分、我慢しました。
彼女は扉を開け、部屋を出た。
廊下に出ると、先ほどまでの重い沈黙とは違う不思議な軽さが、少しずつ胸に広がっていくのを感じる。
冷えきった廊下の空気が、頬に心地よく触れた。
エリザは時計を握りしめながら、ゆっくりと歩き出す。
一度だけ、扉の方を振り返りそうになった。
だが、それもしなかった。
ただ前を向いて、自室へと続く廊下を歩いていく。
途中、先ほど灯りの漏れていた執務室の前をもう一度通り過ぎた。
灯りはまだ点いている。
エリザは一瞬立ち止まり、扉の向こうにいるであろうガルドのことを思った。
彼にどう伝えるべきか、それはまた明日考えればいいこと。
自室に戻ると、エリザは寝台の端に腰を下ろし、しばらくの間じっと動かずにいた。
窓の外では月が雲の切れ間から、光を落としている。
彼女の表情は不思議なほど落ち着いていた。
諦めきった冷静さが心を満たしている。
それは悲しみに沈む諦めではなく、長く背負ってきた重荷をようやく下ろすことのできた者だけが持つ、解放感に近いものだった。
明日には、この家を去る。
その事実だけが、はっきりと彼女を前に向かせてくれている。
窓の外で、夜番の犬が一声、遠く低く鳴いた。
エリザはその音に耳を澄ませながら懐中時計をそっと胸元にしまい、目を閉じる。




