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第6話「後で説明すればいい」

その日の朝、エリザはいつもより早くに目を覚ました。

窓の外はまだ薄闇の名残を留めているが、寝台を出て身支度を整える手つきに迷いは一切ない。

今日はアルテア家の今後を左右しかねない外交交渉の日。


王家に近い有力貴族との会談が予定されており、これまでとは比べものにならないほどの重みを持つ場だった。

マルタが丁寧に髪を結い上げながら、鏡越しに小さく微笑みかけてくる。


「エリザ様、今日は一段と念入りに支度なさっていますね」

「そうね。今日は……大事な日だから」


エリザはそう答えながら、鏡の中の自分を見つめた。

淡い色のドレスはいつもより上質な生地が選ばれている。

装飾は控えめだが、それでも今日という日に相応しい品格を纏うよう、細部まで気を配ったものだった。


支度の合間、彼女は手元に用意した資料の束をもう一度だけ確認する。

何日もかけて準備してきた提案書。

相手方の要望を漏れなく汲み取り、双方にとって利益となる形にまとめ上げた自信作だった。

ペン先で最後の一行を辿りながら、エリザは小さく息を吸い込む。


「今夜は、婚約者としてきちんと隣に立てる」


声には出さず、心の中だけでそう呟いた。

これまで何度も同じような場面で、その隣に立つ資格を奪われてきた。

だが今日は違う――そう自分に言い聞かせるように、彼女は資料をきちんと束ね、丁寧に鞄へと収める。

執務室に降りると、ガルドがすでに玄関先で馬車の準備を整えていた。


「エリザ様、資料はすべてお纏めになりましたか」

「ええ、大丈夫です」

「若様は、先に会場へ向かわれるとのことです。エリザ様は後ほど、別の馬車でどうぞ」


その言葉にエリザは一瞬、小さな引っかかりを覚えた。

いつもなら二人揃って向かうはずの場だった。

だが今日は準備することが多く、少し早めに会場入りする必要があるのかもしれない――そう考え直し、彼女は頷く。


「わかりました。よろしくお願いします」


馬車に揺られながら、エリザは窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。

朝靄の残る街道を、御者の掛け声とともに馬車は進んでいく。

膝の上に置いた資料の束が入った鞄を、彼女は無意識のうちに何度も指先で確かめていた。


会場となる貴族の館に到着したのは、予定より少し早い時刻。

館の玄関ホールにはすでに何人かの使用人が忙しく行き来しており、今日の会談の重要性を物語っている。

エリザは案内された控えの間で、もう一度資料に目を通しながらブレッドの到着を待つことにした。


窓の外には会場となる大広間へと続く回廊が見える。

時折、招待された貴族たちの馬車が到着し、着飾った人々が降り立つ様子が窺えた。

交渉相手は王家に近い有力貴族であり、アルテア家の今後を左右する重要な場。

エリザは資料の内容を再確認し、完璧な微笑を準備しながら椅子に腰掛けて時を待つ。


――今夜は、婚約者として、きちんと隣に立てる。

その思いを彼女は何度も、確かめるように胸の中で繰り返していた。

それでも胸の奥には、拭いきれない薄い不安がずっと燻り続けている。

控えの間の扉が叩かれ、案内係の使用人が顔を覗かせたのは、それからしばらく経った頃だった。


「クレール様、そろそろお時間でございます」


エリザは頷き、資料を手に立ち上がった。

廊下を進み、大広間へと続く扉の前まで来たところで彼女は一度足を止め、深く息を吸い込む。

今日という日の重みをもう一度、体の内に確かめるように。


大広間の扉が開かれると、そこにはすでに多くの招待客が集まっていた。

壁際には交渉相手である貴族の紋章旗が掲げられ、中央のテーブルにはこれから始まる会談の資料が整然と並べられている。

エリザは案内された自分の――ブレッドの隣の――席を確認し、そこに静かに腰を下ろした。


時間が過ぎていく。

会談の開始時刻が近づくにつれ、周囲のざわめきが徐々に静まり始めていた。

エリザは資料の束を膝の上に整え、開始の合図を待つ。

ブレッドの姿はまだない。


談笑の声がふっと途切れた。

エリザは資料から目を上げるより先に、周囲の空気が変わったことで気づいていた。

――また、この感じだ。

顔を上げると、案の定、入り口にブレッドの姿があった。


そして、その腕にあるのはエリザの手ではない。

小柄な体つきの令嬢が、彼の腕に控えめに寄り添うようにして歩いていた。

透き通るような白い肌、大きく潤んだ青い瞳。

今日は薄い水色のドレスに身を包み、いつも以上に儚げな表情を浮かべている。


レベッカ・フォン・ローレ。

エリザは膝の上の資料をきつく握りしめた。

指先が紙の端をわずかに折り曲げる。


「ごめんなさい、ブレッドがどうしてもと……」


レベッカが周囲に聞こえる程度の声で、控えめにそう説明する声が届いた。

その言葉には謝罪の色を纏いながらも、拒みきれない甘えが滲んでいる。

ブレッドはエリザに気づくと、軽く眉を下げて近づいてきた。

彼の表情には後ろめたさと、それを上回るどこか他人事のような余裕が同居している。


「急なことになってね。彼女を一人にしておけなくて」


エリザは何も答えなかった。

ただ静かにブレッドの顔を見つめる。

彼の視線はエリザの目をまっすぐに捉えることなく、微妙に逸れていた。


案内係が遠慮がちに近づいてきて、席次の変更を耳打ちする。

ブレッドはすでに用意されていたエリザの席を自然にレベッカに譲る形で、案内を始めてしまった。


「こちらへどうぞ」


彼がレベッカの背に手を添え、彼女を席へと促す様子をエリザは黙って見ている。

周囲の視線がちらちらとこちらへ向けられているのを感じる。

交渉相手側の従者たちが小さく顔を見合わせているのも見えた。

エリザが一歩下がると、ブレッドは彼女の耳元に顔を寄せ、低く告げた。


「後で説明する。こんな空気だが、君だけはわかってくれ」


また同じ言葉だ、とエリザは思った。

数えることもしなくなって、もうどれくらい経つだろう。

わかってくれと彼が言うとき、それはいつも問いではなく、確認だった。


エリザは完璧な微笑を浮かべたまま軽く会釈をして、端の席へ移動した。

案内係が用意した椅子はテーブルの隅、交渉の中心から最も遠い場所。

彼女はそこに静かに腰を下ろし、膝の上に資料を置き直す。

会談が始まった。

交渉相手の貴族が丁寧な口上とともに議題を切り出す。


ブレッドはレベッカを気遣いながらも、なんとか受け答えをこなそうとしていた。

だが彼の言葉は要点を欠き、時折詰まる。

エリザが用意した資料がテーブルの中央で使われているにもかかわらず、その内容を的確に説明できる者はこの場にいなかった。

交渉相手の一人が資料の数字について踏み込んだ質問を投げかけたとき、ブレッドは一瞬言葉を失い、助けを求めるようにエリザの方へ視線を向けた。


エリザは静かに視線を返しただけ。

声には出さず、しかし目でそれ以上のことを語ることはしない。

ブレッドは焦った様子で曖昧な返答をその場しのぎに口にした。

交渉相手の目にわずかな失望の色が浮かぶのを、エリザは端の席から見ていた。


胸の奥で何かが音を立てて折れる感触があった。

痛みというよりは、長い間耐えてきた糸がついに限界を迎えたような感覚。

目の前の光景――自分が用意した資料が自分の手を離れて的確に扱われることなく、宙に浮いたまま漂っている光景――が、これまでの全てを象徴しているように思えた。


会談はその後もどうにか形を保ちながら進んでいく。

エリザが端の席から時折小さく身振りで示す助言を、ブレッドが気づいて拾い上げることもあった。

その断片的な助けによって交渉はかろうじて決裂を免れ、次回への継続という形でまとまっていった。

だが、誰一人としてその助言がどこから来たものか気に留める者はいなかった。


夜会が終わった後、招待客たちが三々五々、館を後にしていく。

エリザは一人で控え室に戻り、椅子に腰を下ろした。

窓の外では馬車の車輪の音が次第に遠ざかっていく。

しばらくして扉の外から、ブレッドとレベッカの話し声が微かに聞こえてきた。


「無事に終わってよかった。心配かけたね」

「ごめんなさい……私がいたから、余計に大変になってしまったんじゃ……」

「そんなことはないよ。君がいてくれて、僕も心強かった」


その声が完全に遠ざかるまで、エリザは動かなかった。

やがて静けさが戻ると、彼女は懐から銀の懐中時計を取り出した。

蓋を開いたまましばらくその文字盤をじっと見つめる。


心の中で「もう、十分だ」という声がした。

これまでのような、諦めの重さを伴う声ではなかった。

もっと軽く、それでいて後には引けない、そんな響き。


表情を変えないまま、彼女は時計を閉じた。

息を吐いたことにさえ、自分では気づかないほど自然に。

窓の外の暗がりを見つめながら、エリザはこれまでの日々を一つ一つ思い返していく。


深夜の執務室、隣の席を奪われた夜会、一人で埋めてきた穴の数々。

そのすべてが今この瞬間、一本の線として繋がっていくような感覚。

控え室の扉が控えめに叩かれ、ガルドが顔を覗かせた。


「エリザ様、お帰りの馬車をご用意いたしました」

「わかりました。ありがとうございます」


エリザは静かに立ち上がり、資料の束を丁寧に鞄へと収めた。

その所作はいつもと変わらず落ち着いている。

だがガルドは彼女の横顔に何か違うものを感じ取ったのか、しばらく黙って様子を窺っていた。


「エリザ様……何か、ございましたか」

「いいえ。何も」


エリザはそう答え、いつもの微笑みを浮かべる。

ガルドはそれ以上何も尋ねず、静かに一礼して彼女を馬車まで案内した。

夜の街道を馬車が静かに進んでいく。


窓の外に流れる暗い景色を眺めながら、エリザは膝の上でそっと両手を組んだ。

もう、十分だ。

その言葉だけが繰り返し、繰り返し、彼女の中で確かな形を取っていく。


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