第5話「当然の支え」
昼過ぎ、エリザは兄レオンへの返事をしたためていた。
「無理をしすぎるな」という先日の言葉に対し、「大丈夫です。こちらでもきちんとやっております」と、いつもの調子で書き進める。
書き終えた後、その文面を読み返し、ふと筆を止めた。
何度読んでも、当たり障りのない言葉ばかりが並んでいる。
本当のことを何ひとつ書いていないような気がした。
それでも彼女はそれ以上書き直すことなく、封をして侍女に託す。
午後は鉱山からの定例報告と、来月分の予算案の確認に費やされた。
数字を追う作業はエリザにとってむしろ心を落ち着かせる時間。
誰かに気を遣う必要もなく、ただ目の前の事実だけを相手にしていればいい。
夕暮れの執務室に、紙の擦れる音だけが小さく響いていた。
エリザは一日分の帳簿と書類を整理し終え、最後の一枚を綴じ紐でまとめている。
窓の外では日が沈みかけ、部屋の中は淡い茜色に染まり始めている。
彼女はペンを置き、大きく息を吐いた。
今日は珍しく、日が暮れる前にすべての作業を終えられそう。
控えめなノックの音がして、ガルドが入ってきた。
眼鏡の位置を指先で直しながら、いつもの静かな足取りで机の近くまで歩み寄る。
「エリザ様」
その呼びかけにエリザは顔を上げた。
ガルドの表情には、いつもの落ち着きの奥にわずかな翳りが見て取れる。
「近頃、ますますお体に障りませんか」
エリザは思わず手元の書類から視線を上げた。
ガルドがこうして直接体調を気遣う言葉をかけてくることは、これまであまりなかった。
彼はしばらく躊躇うような間を置いてから続ける。
「正直に申し上げますと……この家を静かに支えているのは、エリザ様おひとりです」
その言葉は静かでありながら、確かな重みを持って部屋に落ちた。
ガルドの目には明確な敬意と、言葉にしきれない心配とが同時に宿っている。
先代から仕えてきた彼にとって、この一言は決して大げさな社交辞令ではない。
エリザは手を止めたまま、しばらくガルドの顔を見つめる。
胸の奥で何かが小さく、温かく揺れる感覚。
それはこれまであまり感じたことのない類のものだった。
けれど、その感覚が形になる前に、彼女の口はすでに動き始めている。
「そんなことはありません」
いつもの、練習し尽くした微笑みが自然と唇に浮かぶ。
「ガルドさんや、他の方々がいらっしゃいますから」
ガルドは軽く首を横に振った。
「いいえ。エリザ様の目がなければ、見過ごせないことが多すぎます。先日の輸送ルートの件も――」
「大丈夫です。私がやりますから」
エリザは彼の言葉を柔らかく遮った。
声のトーンは変わらない。
ただ、その言葉の裏にはこれ以上その話を深めたくないという、微かな拒絶が滲んでいる。
ガルドはそれ以上何も言わなかった。
彼は長年の経験から、この令嬢が褒め言葉や労いの言葉を素直に受け取ることをどこか恐れているのだと、薄々気づいているようだった。
だが、その理由まで踏み込む権利は自分にはないと思っているのかもしれない。
彼は静かに頭を下げた。
「差し出がましいことを申しました。失礼いたします」
「いいえ。ありがとうございます」
エリザはそう答え、ガルドが部屋を出て行くのを見送った。
扉が閉まる音がしてから、彼女はしばらくの間動かずにいる。
机の上には明日以降に回してもよいはずの書類が、まだ数枚残っていた。
本来であればブレッドが目を通すべき鉱山関連の報告書も、その中に含まれている。
エリザはそれらを一枚ずつ手に取り、内容を確認し始めた。
――私がやらなければ。
先ほどのガルドの言葉が頭の中で繰り返される。
認められたことは確かに嬉しかった。
だが、その喜びは彼女の中で奇妙な形に姿を変えていく。
認められた分だけ応えなければならない。
優秀だと言われた分だけもっと多くを支えなければならない。
そうでなければその評価に見合わない自分になってしまう――そんな考えがひとりでに膨らんでいく。
途中、マルタが夕食を知らせに来た。
「エリザ様、お食事の支度が整いました」
「ごめんなさい、もう少しだけやらせて。私はいいから、先に済ませておいてちょうだい」
マルタは少し困ったような表情を浮かべたが、それ以上は何も言わず一礼して下がっていった。
エリザはその足音が遠ざかるのを聞きながら、再び書類へと視線を戻す。
窓の外の茜色が次第に藍色へと変わっていく。
エリザはペンを取り、鉱山関連の報告書に目を通し始めた。
本来なら急ぎではない案件だった。
それでも彼女は今日中に片付けてしまおうと、静かに筆を走らせ始める。
燭台に火が灯される頃には机の上にはすでに三枚の追加報告書が広げられていた。
エリザはそれぞれの数字を丹念に追い、修正案を書き添え、必要であれば関係者への手紙も同時に準備していく。
誰かに命じられたわけではない。
ただ、自分がやらなければという思いだけが、彼女の手を動かし続けていた。
一度マルタが夕食の膳を運んできたが、エリザは「ここに置いておいて」とだけ告げ、手を止めない。
膳は結局、湯気を失ったまま机の隅に置かれ続けることになった。
夜が更けても彼女は筆を止めない。
燭台の炎が風もないのに小さく揺れる。
エリザはそれを気にも留めず、次の頁へと視線を移した。
すべての書類を処理し終えたとき、外はすでに深夜。
エリザは最後の一枚を綴じ終え、机の端にきちんと重ねて置く。
それから椅子の背にゆっくりと体を預け、天井の木目をただ見つめていた。
指先は自然と懐へ伸びかけたが、今は触れずにおく。
「この家を静かに支えているのは、エリザ様おひとりです」
ガルドの言葉が、耳の奥でもう一度蘇る。
嬉しかった。それは確かだった。
けれどその喜びは、いつの間にかまた同じ重さに姿を変えていた。
マルタが下げにきたのだろう、気づけば夕食の膳はいつの間にか机の上から消えていた。
いつ運び去られたのかさえ、エリザは思い出せない。
彼女は微笑む必要のないこの一人だけの時間の中で、ただ静かに天井の木目を見つめ続ける。
「私は、いつまでこれを続けるのだろう」
声にはならない問いが胸の中でひとりでに浮かび、そして答えを得ることのないまま静かに消えていった。
燭台の炎がまた一つ、小さく揺れる。
夜はまだ深いところにあった。




