第4話「弱い人を守る」
朝のうちにエリザは、兄のレオンから届いた短い手紙を受け取っている。
「父の体調は変わりない。お前も無理をしすぎるな」
とだけ記された、簡潔な文面。
エリザはそれを丁寧に折り畳み、机の引き出しにしまいながら、少しだけ口元を緩めた。
実家からの便りはいつも短く、けれど確かな温かさを含んでいる。
今日一日を始めるにあたって、それは小さな支え。
昼下がりの陽射しが応接室の窓から柔らかく差し込んでいる。
エリザは隣の小部屋で、午後の外交準備のための資料を整理していた。
今日は隣国との交易協定に関わる話し合いの前段階として相手方の要望をまとめ、アルテア家からの提案書を仕上げる予定になっている。
この数日、彼女は空いた時間を見つけては相手国の慣習や過去の取引記録を調べ、想定される論点を書き出してきた。
ブレッドと二人で内容を確認しながら進めるはずの作業だった。
彼女は資料の束を小脇に抱え、応接室へと足を向ける。
途中の廊下で、使用人の一人とすれ違った。
若い娘はエリザの姿を見ると、少し慌てたように会釈をする。
「エリザ様、いつもお一人で遅くまでお疲れ様です」
「そんなことはないわ。皆が働いてくれているからこそよ」
エリザがそう返すと、娘は嬉しそうに微笑み、そのまま足早に去っていった。
エリザはその後ろ姿を見送りながら、こうした何気ないやり取りの中に自分の居場所が確かにあるのだと密かに感じている。
少なくともこの屋敷で働く者たちは、彼女の存在を当然のものとして受け入れてくれている。
応接室に入ると、ブレッドはすでに机の前に座り、届いた覚書に目を通しているところだった。
エリザは資料を机に広げ、覚書の内容と照らし合わせながら今日の話し合いの段取りを説明し始める。
「まずは、こちらの関税の項目からご確認いただければと」
「ああ、わかった」
ブレッドは頷きながら、覚書を手に取った。
珍しく彼が真剣な表情で文面を追っているのを見て、エリザは少しだけ胸の内で安堵している。
今日こそは二人で共に進められるかもしれない――そんな淡い期待が胸の奥に灯っていた。
そこへ慌ただしい足音と使用人の声が聞こえてきたのは、ちょうどそのとき。
「若様、ローレ家より火急のお使いが参っております」
一人の若い使用人が息を切らせながら応接室に駆け込んでくる。
手には封も乱雑に開けられたままの手紙が握られている。
ブレッドはそれを引ったくるように受け取り、素早く目を通した。
読み進めるうちに、彼の顔からみるみる血の気が引いていく。
「レベッカが……」
その名だけで、ブレッドの顔から表情が抜け落ちた。
エリザがこれまで一度も向けられたことのない速さで、彼はもう扉の方を見ていた。
「わかった、すぐに行く」
彼はもう、部屋の中を見ていなかった。
エリザの方へほとんど視線を向けることもなく、上着を羽織りながら早口で告げる。
「今日の外交準備は少し遅れるかもしれない。すまない」
「ブレッド様――」
エリザが何か言おうとする間もなく、ブレッドはすでに扉の方へ足を向けていた。
彼女の手にある資料の束に一瞬だけ視線が触れる。
だがそれも、次の瞬間には別の場所へと逸れている。
「頼む、後は任せた」
それだけを言い残し、彼は足早に部屋を出て行った。
廊下を遠ざかっていく靴音が次第に小さくなり、やがて聞こえなくなる。
玄関の方角から馬の嘶きと車輪の音が響いた。
応接室には、エリザ一人が残された。
先ほどまで感じていた淡い期待が、音もなく崩れていくのを彼女は静かに見つめている。
手の中の資料はまだ半分も準備が整っていない。
本来ならば今からブレッドと共に相手方の要望を一つずつ確認し、提案の内容をすり合わせていくはずだった。
だがその相手はもう、この部屋にはいない。
控えめな足音がしてガルドが顔を覗かせた。
彼はエリザの様子と机の上に広げられたままの資料を見比べ、わずかに眉を寄せる。
「エリザ様。若様は……」
「レベッカ様のところへ、行かれました」
エリザは静かにそう答えた。
声に責めるような色は乗せない。
ガルドは何か言いたげに口を開きかけたが、結局は小さく頭を下げただけ。
「私が進めますので。大丈夫です」
エリザはそう告げると、資料を机の上に広げ直した。
ガルドはなおも心配そうな表情を浮かべていたが、これ以上何を言っても彼女の答えは変わらないと悟ったのだろう。
それでも彼はふと思い立ったように部屋の隅にある小さな棚から蝋燭を数本取り出し、机の傍に置く。
「もし夜まで及ぶようでしたら、これをお使いください」
「……ありがとう、ガルドさん」
エリザは少し驚いたようにその蝋燭に目をやった。
ガルドは何も言わず、静かに一礼して部屋を出て行った。
彼のこうした細やかな気遣いに、エリザは幾度となく助けられてきた。
それでもその優しさに甘えることに彼女はどこか慣れきれずにいる。
一人になった応接室で、エリザは椅子に腰を下ろし、ペンを手に取った。
窓の外の陽が少しずつ角度を変えていく。
彼女は相手方から届いていた覚書に目を通し、条項の一つ一つを検討していった。
関税の取り決め、船の寄港数の上限、季節ごとの取引量の調整――細かな要望の中には双方にとって折り合いをつけるのが難しい箇所もいくつかある。
本来ならばここでブレッドの意見を聞き、彼が相手方とどのような関係を築いているかを踏まえながら文言を調整するはずだった。
だが、その声を求める相手はいない。
エリザは一人で想定される反応を推測しながら提案書の草案を書き進めていく。
途中、侍女のマルタが茶を運んできた。
彼女はエリザの様子を見て何か言いたそうに口を開きかけたが、結局は何も言わずそっと茶を机に置いて去っていった。
エリザはその気遣いに小さく礼を言い、それでもペンを止めることはない。
日が傾き窓の外の光が橙色を帯び始める頃、彼女はようやく最後の条項を書き終えた。
ペン先がふと、紙の上で止まった。
インクが一滴、小さく滲んで広がっていくのを、エリザはただ眺めていた。
――守られる側になりたかった。
その言葉がふいに、はっきりとした輪郭を持って胸の内に浮かび上がる。
今までも似たような感覚を抱いたことはあったはず。
だがこれほどまで明確な言葉として意識に上ったのは、初めてだった。
自分はいつも誰かの穴を埋める側にいる。
誰かが弱さを見せればその分の重みを引き受けるのが自分の役目。
強くあること、有能であること――それは長所であるはずなのに、いつからかその強さこそが彼女を「守られない側」に固定してしまっているように思えてならなかった。
窓の外で鳥の羽音が一つ、静かに過ぎていく。
エリザは目を伏せ、しばらくそのまま動かない。
やがて夜が更け屋敷の廊下に灯りが点され始めた頃、玄関の方から馬車の到着する音が聞こえてきた。
エリザが応接室で最後の書類を整理していると、ブレッドが疲れた様子ながらもどこか安堵した表情で戻ってくる。
「レベッカはもう落ち着いた」
彼は応接室に顔を出すなりそう告げた。
それから机の上に整然と並べられた資料に気づき、目を見開く。
「これ……すごいな、君のおかげで準備も進んでいるみたいだね」
エリザはいつものように、静かな微笑みを浮かべる。
「お役に立ててよかったです」
ブレッドは安堵したように頷き、「助かった、本当に」と言葉を重ねると椅子に腰を下ろし、資料を軽くめくり始めた。
「明日の交渉、これで大丈夫そうかな」
「はい。相手方の要望には一通り応えられているかと思います。ただ、こちらの関税の項目だけもう少し先方の反応を見ながら調整が必要かもしれません」
「ああ、そこは君に任せるよ。うまくやってくれるだろ」
その一言に、エリザは小さく頷くだけだった。
今日一日一人で抱えてきた重みがその軽い言葉一つでまた元の場所に戻されていくのを感じる。
ブレッドは疲れていたのかそれ以上は多くを語らず、明日の予定について軽く話しながら部屋を出て行った。
彼の足音が遠ざかっていくのを、エリザはただ黙って聞いていた。
一人残された部屋で、彼女は懐から銀の懐中時計を取り出した。
蓋を開け、文字盤に落ちる燭台の光をぼんやりと見つめる。
誰かに守られるという感覚を、自分がこれまでどれほど遠ざけてきたか、エリザは今さらのように気づいていた。
求めたことすらなかった。
求めていいのだと、思ったこともなかった。
彼女は蓋をそっと閉じ、背筋を伸ばして立ち上がった。
灯りを消し、廊下へと出る。
その途中、使用人たちの控えめな話し声がふと耳に入った。
「今日、レベッカ様のところにいらっしゃったブレッド様、優しい言葉をかけていらっしゃったそうよ」
「レベッカ様、『ごめんなさい、私なんかが迷惑かけて……』って、いつも控えめでいらっしゃるものね」
「そしたらブレッド様、『そんなことないよ。君は心配することないんだ』って、それは優しく仰っていたって」
エリザは足を止めることなくその言葉を聞き流すように静かに廊下を歩き続けた。
表情は変わらない。
ただ、胸の奥に今日一日で積もった重みがまた一段、静かに沈んでいくのを感じている。
自室に戻ると机の上に朝方しまったはずの兄からの手紙が、ふと目に留まる。
「無理をしすぎるな」――その言葉をエリザはもう一度、静かに思い返す。
無理をしていないつもりでも、いつの間にかそれが当たり前になってしまっている自分に彼女は薄々気づき始めていた。
明日もまた、強い自分でいなければならない。
誰かがそれを望んでいるからではなく、もうそれ以外の生き方を彼女自身が知らなくなっていたから。
廊下の窓の外には月が薄い雲の向こうで、ぼんやりと滲んでいる。




