第3話「数字は正直」
朝の光がまだ淡い金色を帯びて、執務室の窓から差し込んでいる。
エリザはいつもより少し早く目を覚まし、身支度を整えてから朝食を軽く済ませていた。
食堂で顔を合わせたブレッドは珍しく機嫌が良さそうで、「今日は午前中、報告書に目を通す時間を取るつもりだ」と言っていた。
エリザはその言葉に、ほんの少しだけ期待を抱いた。
もし彼が本当に内容を理解しようとしてくれるなら、これまで一人で抱えてきた案件の一部を共有できるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、エリザは執務室へと向かう。
扉の前まで来ると、中からブレッドの声と紙をめくる音が聞こえてくる。
彼女は控えめにノックをして、中へと入った。
机の向こうでブレッドは届いたばかりの報告書の束を、ぱらぱらとめくっている。
羊皮紙の擦れる音だけがしばらくの間、部屋を満たしていた。
ガルドはその様子を少し離れた場所から、眼鏡の奥の目で静かに見守っている。
「ふむ……」
ブレッドは書類の一枚を手に取り、そこに並んだ数字の列に軽く目を走らせた。
貿易船の到着記録、鉱山からの産出量、取引先ごとの支払い状況――どれも細かな数字が整然と並んでいる。
彼はそれをまるで模様でも眺めるように、表面だけを追う。
「数字は正直だな」
誰に向けるでもなくそう呟く。
だがその声には内容を理解しようとする意志は感じられない。
数行読んだだけで、彼はすでに次の頁へと視線を移している。
ガルドが一歩前に出て、静かに口を開いた。
「産出量の数字に、少々気になる点が」
ブレッドは書類から目を上げないまま、軽く頷くだけだった。
「大丈夫だろう、それくらい」
その言い方は確認というよりも、自分自身を納得させるための儀式のように聞こえる。
ガルドは何か言いかけて結局は口を閉ざし、静かに一歩下がった。
エリザは扉の傍らに立ったままその様子を見ている。
今朝の期待はすでに小さく萎み始めている。
それでも彼女は表情を変えず、静かに部屋の奥へと歩を進めた。
ブレッドは彼女に気づくと、途端に表情を明るくした。
「ああ、ちょうどよかった」
彼は机の端に押しやったばかりの報告書を、そのまま彼女の方へ滑らせるように差し出す。
「このくらいならエリザが何とかするだろう。君に任せれば安心なんだ」
エリザは書類を受け取りながら、静かにブレッドの顔を見た。
彼はすでに視線を外し、壁際の姿見に映る自分の襟元を軽く整えている。
今日の予定を思い出しているのだろう。
エリザには彼の頭の中に浮かんでいるものがおおよそ想像できた。
おそらくレベッカの見舞いか、あるいは午後の軽い社交。
どちらにせよこの報告書の中身ではない。
「承知いたしました」
短く、それだけを答える。
声に感情の色を乗せることはしない。
ブレッドは満足げに頷き、コートを羽織りながら立ち上がった。
「じゃあ、頼んだよ」
彼はそう言い残すと足取り軽く部屋を出て行く。
扉が閉まる音が静かな執務室に響いた。
ガルドが小さく息を吐くのがエリザの耳にも届く。
「エリザ様……」
「大丈夫です」
エリザは先回りするように答え、書類を抱えたまま自分の机へと向かった。
ガルドはそれ以上何も言わず、静かに一礼して部屋を出て行こうとしたが、扉の前で一度足を止める。
「本日の午後、商人ギルドのハルトマン殿より面会の申し入れが届いております。ご都合は……」
「私が伺います。時刻の調整をお願いできますか」
「畏まりました」
ガルドは一礼して去っていった。
一人になった執務室でエリザは椅子に腰を下ろし、受け取った報告書を広げる。
窓から差す光が次第に角度を変えていく。
彼女はペン先をインク壺に浸し、数字の列を一行ずつ丁寧に追い始めた。
最初の違和感は鉱山からの産出報告にあった。
先月の記録と比較すると産出量の数字はほぼ横ばいのはずなのに、対応する輸送費の項目だけが不自然に膨らんでいる。
エリザは眉をひそめ、別の帳簿を引き寄せて照らし合わせる。
――輸送ルートが変わっている。
記載されている経由地の名前がいつもと違っていた。
本来使うはずの街道ではなく、遠回りの費用のかさむ道が選ばれている。
理由の記載はどこにもない。
エリザはペンを持つ手を止め、しばらくその一行を見つめた。
これは単純な記載ミスではない。
誰かが意図的に、あるいは怠慢によって、より高くつく手段を選んでいる。
もしこのまま放置すれば来月にはさらに大きな損失となって表れるだろう。
数字はそう告げている。
エリザは静かに立ち上がり、書棚から関連する契約書の控えを取り出した。
それを机に広げ、輸送業者の名前を確認する。
ペンを走らせ、事情を問い合わせる手紙の下書きを始めた。
言葉を選びながら、しかし迅速に。
相手の面子を潰さぬよう、それでいて事の重大さが伝わるように。
途中、侍女が昼食の膳を運んできた。
簡素なスープとパンが机の端に静かに置かれる。
「エリザ様、少しお召し上がりください。冷めてしまいます前に」
「えぇ、ありがとう。すぐにいただくわ」
そう答えたものの、エリザの手は止まらない。
輸送ルートの候補を洗い出し、以前取引のあった商人の名を思い出し、その連絡先を控えから探し出す。
損失を最小限に食い止めるための算段を頭の中で組み立てていく。
スープの表面に張った薄い膜を見て、エリザは初めて自分がまだ何も口にしていないことに気づいた。
昼を過ぎて少し経った頃、エリザは予定通り応接室でハルトマンとの面会に臨む。
恰幅の良い商人ギルドの長は机の上に契約書を広げながら、いつものように実利的な口調で切り出した。
「クレール嬢、単刀直入に申し上げます。近頃輸送の遅延が続いております。このままでは他の取引先にも影響が出かねません」
「承知しております。実は先ほど原因と思われる箇所を見つけたところです」
エリザは手元の帳簿を示しながら、輸送ルートの不自然な変更について説明する。
ハルトマンは眉を寄せながらも、その的確な説明に感心したように頷いた。
「さすがですな。……こう申しては失礼かもしれませんが、若様よりもクレール嬢とお話しした方が話が早い」
「恐れ入ります」
エリザは静かに頭を下げただけで、それ以上の言葉は返さない。
ハルトマンとの面会はその後もしばらく続き、代替ルートの選定について具体的な合意を得ることができた。
執務室に戻る頃には日はすでに傾きかけている。
エリザは再び机に向かい、残っていた手紙の下書きを仕上げていく。
彼女の手は止まらない。
侍女が茶を運んできてもエリザは礼を言うだけで、湯気の立つそれに手をつけることさえ忘れていた。
夕方近くになってようやく手紙の束が机の端に積み上がり、彼女は一つ大きく息をつく。
窓の外はすでに橙色に染まり始めている。
エリザは椅子の背にわずかに体を預け、窓の外を眺めた。
庭師の姿はもうなく、代わりに使用人たちが灯りを点し始めている影が見える。
この部屋に誰かが顔を出すことはない。
作業の進み具合を尋ねる者も、手伝おうとする者もいない。
ただ彼女が結果を出すことだけを屋敷全体が当然のように待っている。
その沈黙が今日はいつもよりも重く感じられた。
エリザは再びペンを取り、最後の一通――取引先の商人ハルトマンへ宛てた手紙を書き上げた。
丁寧に封をし、明日の朝一番に届けるよう後で使いの者に伝えなければならない。
そこまで考えたところでようやく肩の力が少しだけ抜けた。
処理し終えた帳簿を閉じ、彼女は机に両肘をつく。
「数字は正直」
先ほどブレッドが口にした言葉がふと頭の中で蘇る。
確かに数字は嘘をつかない。
乱れがあればそこには必ず理由がある。
だからこそ彼女はその乱れを見つけ、正すことができる。
けれどその正しさに気づけばつくほど、自分の存在そのものがただの計算道具のように思えてくるのだった。
数字さえ正しければいい。
誰がそれを直したかは問題にならない。
朝、少しだけ抱いていた期待のことをエリザはふと思い出した。
ブレッドが本当に報告書の中身を理解しようとしてくれたなら――そう考えかけて彼女はすぐにその思考を打ち切る。
期待するだけ無駄なこと。
窓の外で鳥の声が一つ、遠くから聞こえて消えた。
屋敷の中はしんと静まり返っている。
エリザは懐に手を当てた。
開ける必要はない。
今はただ、そこに確かな重みがあることだけを確かめたかった。
微笑む必要のない、一人だけの時間。
それだけが今日一日の中で彼女に残された唯一のもの。
明日もまた同じことが繰り返されるのだろうか。
誰かが数字に目を通し、細部を見ずに彼女へ委ね、彼女がそれを一人で正していく。
その予感だけが静かに、確かに胸の中に積もっていく。




