第2話「隣に立つべき人」
昼下がり、エリザの部屋には侍女のマルタが選んだ数着のドレスが寝台の上に並べられていた。
「今宵の夜会にはこちらの青灰色のものがよろしいかと存じます」
マルタがそう勧めるドレスを、エリザは静かに手に取る。
装飾は控えめだが生地の質は上等で、彼女の白い肌をより一層際立たせるものだった。
華美な色合いを好まない彼女の趣味をマルタはよく心得ている。
「そうね、ありがとう。それにするわ」
袖を通しながらエリザは今日の予定を頭の中でなぞる。
今夜はアルテア家にとって決して小さくない夜会。
招待客の中には鉱山の取引先である商人や、港湾貿易に関わる有力な子爵家の当主も含まれている。
婚約者としてブレッドの隣に立ち、彼らへの挨拶を交わすのが今夜の自分の役目。
支度を終える頃、扉が控えめに叩かれガルドが顔を見せる。
「エリザ様。会場の最終確認が整いました。席次表を念のためご確認いただけますでしょうか」
差し出された紙には招待客の名と、その席順が細かく記されている。
エリザはそれを一通り目で追い、自分の名前がブレッドの隣に記されていることを確かめた。
何度目かの確認だったが、それでも一応自分の目で見ておきたい。
「結構です。ありがとう、ガルドさん」
「畏まりました。……エリザ様も、たまにはこうした場を楽しまれてもよろしいのですよ」
ガルドの言葉にエリザは一瞬、驚いたように瞬きをした。
彼がこうして仕事の確認以外の言葉をかけてくることはあまりない。
エリザは小さく微笑む。
「そう、ですね。そうできればいいのですが」
その答えは半分だけ本心。
夜会という華やかな場そのものを彼女は決して嫌っているわけではない。
ただそこに立つ自分の役割がいつも「楽しむ」ことよりも「務める」ことに重きを置かれているだけだった。
ガルドは深く一礼し、部屋を出て行く。
エリザは鏡の前に腰を下ろし、侍女に髪を整えてもらいながら窓の外に目をやった。
すでに何台かの馬車が遠く街道の方から近づいてくるのが見える。
侍女が最後に髪飾りを留めながら「お美しゅうございます」と微笑んだ。
エリザはその言葉に礼を返し、静かに椅子から立ち上がる。
懐中時計を手に取り、小さなドレスの隠しに滑り込ませた。
馴染んだ冷たい銀の感触が布越しにも伝わってくる。
それだけで少しだけ心が落ち着くような気がした。
控え室を出る前、エリザは鏡の中の自分をもう一度見つめる。
――今夜こそは。
小さく声に出さずに唇だけを動かす。
今夜こそは婚約者として彼の隣に立てる。
それを何度も確認したのは他でもない自分自身だった。
胸の奥に薄い不安が滲む。
理由はわからない。
ただブレッドが今朝、慌ただしく屋敷を出て行く際にかけた言葉が耳の奥に残っていた。
「少し遅れるが、必ず追いつく」
それだけ。
何に遅れるのか、どこへ行くのか詳しくは語らなかった。
エリザは頷いただけで深く問い質すことはしなかった。
いつものことだと自分に言い聞かせながら。
会場となる大広間の扉が開いた瞬間、話し声と弦楽の音が一斉に押し寄せる。
天井の灯りが床のあちこちに金色の輪を落とし、着飾った人々のあいだを縫うようにその光が揺れていた。
絹擦れの音が大理石の床の上を渡っていく。
エリザは決められた位置――ブレッドの到着を待つための控えめな一角に立つ。
周囲の視線が時折こちらへ流れてくるのを感じる。
彼女はそのたびに静かに頭を傾け、微笑みを返した。
近くを通りかかった年配の男爵夫人が足を止めて声をかけてくる。
「クレール嬢、いつも見事に取り仕切っていらっしゃるとか。アルテア家もあなたのような方がいて心強いことでしょう」
「恐れ入ります。まだまだ至らぬ点も多く……」
エリザは丁寧に頭を下げた。
夫人は満足げに頷き、また別の招待客の輪へと移っていく。
こうした言葉をエリザはこれまでも幾度となく受け取ってきた。
悪意のない、むしろ好意的な言葉。
それでもその度に彼女の胸には微かな居心地の悪さが残る。
褒められているのはいつも「取り仕切る力」であって、自分自身ではないような気がしてならなかった。
時間が過ぎていく。
弦楽が一曲を終え、次の曲が始まる。
招待客の輪が少しずつ広場の奥へと移動していく。
エリザは扇を軽く開き、閉じ、また開く。
その仕草だけが彼女の内側の時間の経過を測る唯一の指標だった。
――遅い。
そう思ったとき、大広間の入り口の方からざわめきが波のように広がった。
人々の視線が一斉にそちらへ向く。
エリザも自然と顔を上げた。
ブレッドが、そこにいる。
けれどその腕にあるのはエリザの手ではなかった。
小柄な体つきの令嬢が彼の腕に控えめに寄り添うようにして歩いている。
透き通るような白い肌、大きく潤んだ青い瞳、緩やかに巻かれた金髪がシャンデリアの光を受けて輝いていた。
淡いパステルピンクのドレスに身を包んだその姿は儚さと愛らしさを絵に描いたようだった。
歩くたびに彼女はどこか辛そうに小さく息をつき、ブレッドがその都度気遣うように歩調を緩めている。
レベッカ・フォン・ローレ。
エリザはその名前を胸の中でだけ呟いた。
会うのは初めてではない。
けれどこうして公の場でブレッドの腕に寄り添う姿を目にするのは今夜が初めてだった。
ブレッドがエリザに気づいたのはそれから数歩進んだ後のこと。
彼の表情が一瞬だけ気まずそうに歪む。
「エリザ」
彼は足早に近づいてくると周囲に聞こえないよう声を落として告げた。
「彼女の家が今大変でね。わかるだろう?どうしても一人にはしておけなくて」
エリザは何も答えなかった。
ただ彼の背後に控えるレベッカの伏せられた睫毛の震えを視界の端で捉えている。
「後で説明する」
それだけ言い残すとブレッドはレベッカの方へ向き直り、彼女の肩に軽く手を添えて用意されていた席――本来エリザのために設けられていたはずの席へと彼女を導いていった。
エリザはその場に立ち尽くしたまま二人の後ろ姿を見送る。
侍従が遠慮がちに近づいてきて彼女のための新しい席を耳打ちした。
壁際に近い、目立たない位置だった。
エリザは礼を言い、静かにそちらへ足を向ける。
歩きながら扇の骨を握る指にわずかに力がこもった。
「あら、またあの方は後回しなのね」
「おかわいそうに。婚約者のはずでしょう?」
背後で囁き声が聞こえる。
「……また、なのね」
それだけで十分だった。
誰が、何について言っているのか、エリザにはすぐに分かった。
振り返らなくても声の主はおおよそ見当がつく。
金髪を高く結い上げ、誰よりも華美な扇を持つセレスティ・フォン・マールと、その取り巻きの令嬢たち。
社交界の噂話の中心にいつも彼女たちの姿がある。
エリザは表情を変えることなく、歩みを緩めることもなく目的の席へと向かった。
腰を下ろしてからも視線は自然とブレッドの方へ引き寄せられる。
彼は近くにいた年配の貴族たちに向かって何やら熱心に言葉を重ねている。
ローレ家の窮状、レベッカの体調、そうした話題が断片的にエリザの耳にも届いてきた。
誰かが小さく頷き、誰かが同情するように眉を寄せる。
「彼女の家は今大変なのだから仕方ないだろう」
ブレッドがそう笑いながら口にしたのをエリザは確かに聞いた。
その声には後ろめたさの欠片もない。
むしろ自分の優しさを誇るような、どこか誇らしげな響きさえあった。
喉の奥に小さな石を飲み込んだような重さが残る。
隣の席に座っていた見知らぬ若い令嬢が遠慮がちに話しかけてきた。
「あの……クレール様でいらっしゃいますよね。以前、社交界の名簿の整理でお世話になりました。とても丁寧なお仕事で母が感心しておりました」
「そう言っていただけて光栄です」
エリザは反射的に微笑んで答えた。
令嬢は嬉しそうに続けようとしたが周囲の空気を読んだのかそれ以上は何も言わず、軽く会釈をして自分の輪へと戻っていった。
エリザはその後ろ姿を見送りながら、ふと自分の評判というものがいつも「仕事」を通してしか語られないことに気づく。
――私は、隣に立つ資格がないのだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、自分でも驚くほど自然にその思考を受け入れている自分に気づいた。
反発も、怒りも湧いてこない。
ただ静かに水底に石が沈むようにその言葉が胸の奥に定着していく。
エリザは扇をそっと閉じ、席を立った。
誰も呼び止めなかった。
それに気づいても、もう驚きはしなかった。
広間を出て廊下を進む。
灯りの数が少なくなり弦楽の音色が次第に遠ざかっていく。
石造りの壁に沿って歩きながらエリザは懐から銀の懐中時計を取り出した。
蓋を開く。
小さな金属音が静かな廊下に響いた。
針は宴が始まってからすでに二時間近くが経過していることを示している。
エリザはその文字盤をしばらく見つめてから、蓋を閉じた。
廊下の途中、窓辺に置かれた長椅子にエリザは腰を下ろす。
ドレスの裾を整えながらしばらくの間ただ月明かりの差し込む窓の外を眺めた。
庭園の木々が風もないのにわずかに影を揺らしているように見える。
遠くから笑い声と楽の音がくぐもって聞こえてくる。
あの光の中に自分の居場所はもうない。
「隣に立つべき人」――それは今夜もまた自分ではなかった。
エリザは長椅子から立ち上がり、足音を立てず暗い廊下の先へと歩き出した。
控え室に戻ればマルタが心配そうな顔で待っているだろう。
だが今はその優しさに応える言葉さえ、うまく用意できそうにない。




