第1話「優秀だから」
「婚約を、返上させてください」
その一言を口にした夜のことを、エリザは後になって何度も思い返すことになる。
ブレッドがどんな顔をしていたか。自分がどんな声で告げたか。
☆
夕食を終えてからしばらく、屋敷の中はすでに静けさに包まれていた。
使用人たちの足音も途絶え、廊下の灯りも半分ほどが落とされている。
エリザ・フォン・クレールは、その静寂の中、一人で執務室の机に向かっていた。
窓の外はとうに闇に沈み、燭台の炎だけが机の上の帳簿を淡く照らしている。
数字の羅列を追う目は瞬きを惜しむように動きを止めない。ペンダコの残る指先が、インクの乾いた頁をめくっていく。
結い上げる余裕もなく下ろされた髪が、俯くたびに頬にかかり、彼女はそのたびに小さく耳へとかけ直していた。
華美な装飾を好まない彼女は、こんな夜更けにはなおのこと簡素な室内着に袖を通しているだけで、宝飾品の類は一つも身につけていない。
それでも机に向かう横顔には、貴族の令嬢らしい品の良さが自然と滲む。
しばらく前、侍女のマルタが茶を運んできた際、心配そうな顔でこう尋ねたのをエリザは思い出していた。
「エリザ様、今夜もお一人で……お加減は大丈夫でございますか」
「大丈夫よ。ありがとう、マルタ」
いつもの微笑みで返すと、マルタはそれ以上何も言わず、深々と一礼して部屋を出て行った。
あの茶はもうすっかり冷めているだろう。
エリザは机の端に置かれたままの茶器に、ちらりと視線を向けた。
湯気はとうに消えている。
それでも飲む間を惜しんで手を止めなかった自分に、彼女はどこか慣れきってしまっていた。
貿易船の到着記録と、鉱山からの産出報告。
数字が一つ、合わない。
彼女はペンを取り、余白に小さく計算を書き付けた。
――港湾局の記載ミスだ。輸送量の桁が一つずれている。
そう判断するまでにさほど時間はかからない。
エリザにとって数字の中に潜む綻びを見つけることは、呼吸をするのと同じくらい自然なこと。
子爵家に生まれた彼女は幼い頃から「エリザは出来る子だから」と繰り返され、その期待に応えることを当たり前として育ってきた。
ふと、脳裏に古い記憶が過ぎる。
まだ十にも満たない頃、家庭教師から出された算術の課題を誰よりも早く解き終えたときのこと。
兄のレオンが「すごいな、エリザは」と目を丸くし、父も満足げに頷いていた。
あのときの誇らしさと、少しの居心地の悪さが入り混じった感覚を彼女は今でも覚えている。
褒められることは嬉しかった。
けれど同時に、次もまた同じように応えなければならないという小さな重みも芽生えていた。
誰かに命じられたわけではない。
ただ、目の前に「合わないもの」があれば、それを正さずにはいられない性分。
修正案を書き添え、次の頁へ進む。
鉱山からの報告書には先月と比べてわずかに産出量が減っている旨が記されていたが、天候による減産として片付けられそうな範囲だった。
それでも彼女は念のため、関連する取引先への確認状を一通、下書きしておくことにする。
明日の朝には清書して送らねばならない。
アルテア伯爵家は鉱山と港湾貿易を主な収入源とする中堅貴族の家。
近年は経営が傾き始めていると専らの噂だった。
次期当主であるブレッドに大きな期待がかかる一方で、この家には代々「実務は有能な婚約者に任せる」という慣習が根付いている。
前当主の頃からそうだったと聞く。
エリザ自身、その慣習に異を唱えたことは一度もない。
むしろ自分の能力が正しく必要とされている証だと、そう思い込むことで深夜のこの作業を受け入れてきた。
一区切りついたところで、扉が控えめに叩かれる。
「エリザ様、失礼いたします」
家令のガルドだった。
彼は手燭を片手に静かに部屋へと入ってくる。
眼鏡越しの目が机の上に広げられた書類の量を一瞥し、わずかに眉を寄せた。
「まだ、こんなに」
「もう少しですから」
エリザはペンを止めずに答えた。
ガルドはしばらくその場に立ったまま何か言おうか迷うような素振りを見せたが、結局は小さく息を吐くだけ。
「差し出がましいようですが、蝋燭をもう一本お持ちしましょう。そちらの一本はそろそろ……」
エリザは顔を上げ、燭台の炎に目をやった。
確かに蝋は残り少なくなっている。
「お願いします」
ガルドは一礼し、部屋を出て行った。
しばらくして戻ってくると新しい蝋燭に丁寧に火を移し、古い方の燭台をそっと下げる。
その一連の所作には無駄がない。
前当主の代からこの家に仕えてきた彼にとって、深夜まで働く婚約者の姿を見守ることはもはや日常の一部になっていた。
「他に何かご入用なものは」
「いいえ、大丈夫です。ありがとう、ガルドさん」
ガルドは静かに頭を下げ、今度こそ部屋を後にしようとする。
その背に、エリザは何も声をかけなかった。
だが扉に手をかけたところで、彼は一度だけ足を止めた。
「エリザ様」
「はい?」
ガルドは振り返り、口を開きかけた。
だがその視線が一度、机の上に積まれた書類の山へと落ちる。
何かを言うべきかどうか、迷っているのがエリザにも分かった。
「……いえ。おやすみなさいませ」
結局それだけを告げ、彼は静かに去っていった。
エリザはその後ろ姿をしばらく見送り、それから小さく首を傾げる。
ガルドが言いかけて呑み込んだ言葉が何だったのか、彼女には見当もつかなかった。
――もしかしたら休むように言おうとしたのかもしれない。
だが深く考える気力も今の彼女には残っていなかった。
短いやり取りを終え、エリザは再び帳簿へと向き合う。
だが、ふと指先が止まった。
エリザは無意識に懐から小さな銀の懐中時計を取り出していた。
実家から譲り受けたそれは彼女がまだ幼い頃から肌身離さず持っている、数少ない私物の一つ。
蓋を開くと精緻な針が静かに時を刻んでいる。
――一時を、回っている。
胸の内で静かにその事実を確認する。
驚きはなかった。
ただ確認しただけ。
ブレッドが帰宅すると約束していたのは夕食の前――つまり六時間近くも前のことだった。
彼女は時計の蓋を閉じ、また帳簿へと視線を戻す。
右手の指先が無意識のうちにもう一度、蓋の縁をそっと撫でた。
不安なわけではない。
ただ、こうして時間を確かめる仕草だけが彼女にとって唯一、感情の揺らぎを外に出す方法。
窓の外で風が木々の梢を揺らす音がする。
遠くで夜番の犬が一声、低く吠えた。
エリザはその音に耳を傾けながら次の書類へと手を伸ばす。
今夜のうちに片付けておかなければ明日の商談に間に合わない案件が、まだ二件残っている。
扉が開いたのはそれから小一時間ほどした頃。
「ああ、まだ起きていたのか」
入ってきたのは次期アルテア伯爵、ブレッド・フォン・アルテアだった。
柔らかな金髪はいくらか乱れ、青い瞳の下にはどこか甘さの残る影がある。
整った顔立ちに人懐こい笑みを浮かべる彼は、社交界では「優しい人」として評判が良かった。
困っている者を放っておけない性分だと誰もが口を揃えて言う。
今夜もその評判を裏切らない理由で帰りが遅くなったのだろう。
急いで帰ってきたのか、それとも別のところで気を張っていたのか、頬はほんのりと上気している。
エリザは筆を置き、いつものように背筋を伸ばして立ち上がった。
「お帰りなさいませ、ブレッド様」
「ああ、うん……すまない、遅くなった」
ブレッドは決まりが悪そうに頭を掻きながら部屋の中へ入ってくる。
エリザは表情を変えることなく静かに彼の言葉を待った。
「レベッカが急に熱を出してね。母君も気が動転してしまって、僕が傍を離れるわけにはいかなかったんだ」
その名前を聞いた瞬間、エリザの胸の奥で何かがすっと沈む感触があった。
レベッカ・フォン・ローレ。
没落気味の男爵家に生まれたブレッドの幼なじみ。
病弱で儚げな彼のことをブレッドはずっと気にかけている。
それ自体は優しさの発露として何もおかしなことではないはずだった。
エリザはそう自分に言い聞かせてきた。
表情には出さない。
長年かけて磨き上げてきた微笑みが自然と唇に浮かぶ。
「そうでしたか。レベッカ様、お体は大丈夫でしたか」
「うん、少し落ち着いたみたいだ。……いや、本当にすまない。君との約束をすっぽかす形になってしまって」
ブレッドは軽く頭を下げるようにしてからすぐに顔を上げ、どこか安堵したような表情を浮かべた。
「でも、君にだけはわかってほしくて」
その言い方がエリザにはひどく馴染みのあるものに聞こえた。
何度も、何度も同じ言葉を彼から受け取ってきた。
わかってほしいと彼が口にするとき、それはいつも「わかってくれるはずだ」という確信を伴っている。
疑いすら持たれない前提。
「大丈夫です」
彼女は静かにそう答えた。
「大丈夫です」「お気になさらず」――この二つの言葉はもう考えるより先に口から出てくるようになっていた。
ブレッドはほっとしたように笑い、机の上に広げられた帳簿へ何気なく視線を落とした。
細かな数字の羅列と几帳面な修正の跡。
彼はそれを一瞥しただけで内容を読み取ろうとする素振りは見せない。
「こんな時間まで仕事をさせてすまないな」
「いいえ。私が好きでやっていることですから」
それは半分本当で、半分は違った。
エリザは数字を扱うことが嫌いではない。
むしろ明確な答えが出るものを相手にしている時間は彼女にとって数少ない安らぎでもあった。
けれど深夜に一人でこれをこなさなければならない理由まで彼女が望んだわけではない。
ブレッドはそんな彼女の内心には気づかぬまま机の傍まで歩み寄り、軽く肩に手を置いた。
「でも、エリザは優秀だからこれくらい平気だろう?」
その一言が静かに、けれど確実にエリザの胸の奥へと落ちていく。
――優秀だから。
その言葉を彼女はこれまで何度受け取ってきただろうか。
誉め言葉のようでいて、その実、便利であることの言い換えでしかないといつからか気づいていた。
優秀だから任せられる。
優秀だから我慢できる。
優秀だから――優先されなくても構わない。
エリザは微笑を崩さなかった。
崩す理由もその術も彼女は持ち合わせていない。
「ええ。大丈夫です」
「君がいてくれるから安心なんだ」
ブレッドは満足げにそう言うと軽く彼女の肩を叩き、部屋を出て行った。
足音が廊下の向こうへと遠ざかっていく。
扉が閉まる音がして再び部屋には燭台の炎の揺れる音だけが残った。
エリザはしばらくの間動かなかった。
閉じられた扉を見つめ、それからゆっくりと視線を机の上の帳簿へ戻す。
指先が無意識に机を撫でていた。
冷めきった茶器がまだ机の端に残っている。
エリザはそれを一瞥し、小さく息をついた。
今さら飲む気にはなれない。
彼女は立ち上がり、窓辺まで歩いて外の暗がりに目を凝らした。
月は雲に隠れ、庭園はただ黒い影の集まりにしか見えない。
――また、レベッカ様か。
声にはしなかった。ただ胸の奥深くでその思いが静かに沈んでいくのを感じていた。
控えめなノックの音がしてガルドが再び姿を見せたのは、それからすぐのこと。
五十代前半、白髪の混じった短髪に眼鏡をかけた痩身の男で、前当主の代からこの家に仕えている。
感情を表に出すことは滅多にないが、有能な者を正当に評価する目を持った人物だとエリザはこれまでの付き合いで知っていた。
彼は眼鏡の奥の目に静かな敬意を湛えて、深く一礼する。
「エリザ様。今夜も遅くまで恐れ入ります」
「これで明日の朝までに間に合います」
エリザはそう答え、いつもの微笑みを浮かべたまま帳簿を丁寧にまとめてガルドへ手渡した。
ガルドはそれを恭しく受け取り、もう一度深く頭を下げる。
その所作には他の誰よりも彼女の働きを正しく理解している者だけが持つ静かな重みがあった。
「お疲れさまでございました」
「ガルドさんこそ。おやすみなさい」
短いやり取りを終え、エリザは部屋を出た。
冷えた廊下を燭台の灯りが点々と照らしている。
彼女は一人その廊下を歩きながら、先ほどの言葉を頭の中で反芻していた。
――エリザは優秀だから、これくらい平気だろう?
平気だろう、平気だろう、平気だろう。
何度繰り返してもその言葉は少しも軽くならない。
むしろ歩くごとに靴音に合わせて重さを増していくようだった。
自分がどれほど正確に数字を読み、どれほど的確に問題を解決しても、それは「当然のこと」として扱われる。
誰も驚かない。
誰もそれが特別な労力の結晶であるとは思わない。
ただ次に何か問題が起きればまた同じように「エリザなら」と名前が挙がるだけ。
自室の前まで来たところでエリザは足を止めた。
すぐに扉を開ける気にはなれず、しばらくその場に立ち尽くす。
廊下の窓から差し込む月明かりが雲の切れ間から一瞬だけ床に白い筋を落とした。
エリザは懐中時計をもう一度取り出した。
蓋を開き、静かに時を刻む針を見つめる。
右手の指先でそっとその冷たい銀の表面を撫でた。
――私の心がいつか本当に終わってしまう日が来るのだろうか。
そんな予感がふと胸をよぎる。
だが彼女はすぐにその思考を押しやり、蓋を閉じる。
誰も見ていない。
それでも彼女は一度だけ深く息を吸い、頬に力を込めて、いつもの顔を取り戻した。
明日も同じ一日が待っている。
帳簿を整理し、報告書を確認し、誰かの都合に合わせて微笑む一日が。
エリザは静かに扉を開けた。
灯りを落とした部屋の中へと入り、静かにその日を終わらせる。




