第10話「一人で抱えなくていい」
公爵家の領地に来てから、数日が経っていた。
エリザに与えられた執務室はアルテア家のものよりも広く、窓からは領地の景色が一望できる。
朝の光が差し込むその部屋で、彼女は少しずつ新しい環境に体を馴染ませていた。
最初の数日はこれまでの資料を読み込むことに費やされた。
交易路の記録、鉱山の産出報告、各拠点の在庫状況――膨大な量の書類に目を通しながら、エリザは領地全体の輪郭を少しずつ自分の中に描き出していく。
朝、侍女が部屋に茶を運んできた際、控えめに尋ねてきたことがあった。
「クレール様はいつも、こんなに朝早くから机に向かわれるのですか」
「昔からの習慣なの。目が覚めたらまず数字を確認しないと落ち着かなくて」
エリザがそう答えると、侍女は少し驚いたような顔をして、それでも「では、お茶はいつでもお持ちいたしますね」と柔らかく微笑む。
アルテア家にいた頃と違い、ここでは彼女の働き方そのものに誰も口を挟むことがない。
それがかえって落ち着かないような、奇妙な感覚を彼女にもたらしていた。
昼下がり、エリザは領地の中を歩いて回る機会を得た。
案内をしてくれたのはこの地で長く働いているという初老の管理官。
「クレール様は鉱山の方にもご興味が?」
「ええ。数字だけでは見えてこないことも多いでしょうから」
エリザがそう答えると、管理官は感心したように頷いた。
「若様――アレックス様も同じことをよく仰います。現場を知らずに数字だけを信じるなと」
その言葉に、エリザはふとアレックスの人となりを少しずつ知り始めているような気がした。
実力主義を掲げる改革派だとは聞いていたが、それが単なる理念ではなく実際の行動として貫かれていることが、こうした日々の中で伝わってくる。
夜になるとエリザは再び執務室に戻り、交易路再構築の資料作成に取り掛かった。
日中に集めた現場の情報を数字と照らし合わせながら、具体的な修正案へとまとめ上げていく作業。
燭台の明かりだけが頼りの部屋で、エリザは黙々と筆を走らせる。
「早めに結果を出せば、必要とされ続ける」
その思いが彼女を自然と机に向かわせ続けていた。
アルテア家で染み付いたその習慣は環境が変わっても、そう簡単には抜けそうにない。
誰かに命じられているわけではない。
それでも目の前に「終わっていない仕事」がある限り、彼女の手は止まらない。
資料の下書きを終え、修正案をまとめ、さらに関係者へ向けた手紙の草稿にまで手を伸ばしたところで、エリザはふと懐から銀の懐中時計を取り出した。
右手の指先で蓋を開き、文字盤を確認する。
――もう、十二時を回っている。
驚きはなかった。
ただその事実を確認しただけ。
彼女は時計を戻し、再び筆を取ろうとした。
控えめなノック音がして扉が開いたのは、そのとき。
「こんな時間までやっているのか」
入ってきたのはアレックスだった。
黒い髪に鋭い瞳、いつもの落ち着いた佇まいで彼は部屋の入り口に立ったまま、机の上の資料の山を一瞥した。
エリザは慌てて筆を置き、椅子から立ち上がりかける。
「アレックス様。すぐに終わります。明日の会議に間に合わせたくて」
「座っていい」
アレックスは短くそう告げると、机の傍まで歩み寄ってきた。
彼の視線は積み上げられた書類の量とエリザの顔を、順に確かめるように動く。
「資料は十分だ。これ以上は明日でいい」
「ですが……」
エリザはまだ言い足りないことがあるように口を開きかけた。
だがアレックスは首を横に振り、机の上の資料をそっと閉じた。
「何でも一人で全て抱えなくていい。疲れたら休め」
その言葉は命令でも叱責でもなかった。
ただ彼女の状態をきちんと見た上での、静かな気遣い。
エリザは一瞬、言葉を失う。
これまで彼女がどれほど遅くまで働いていてもそれを「当然のこと」として受け止められることはあっても、こうして直接「休め」と本気で告げられたことは一度もなかった。
「優秀だから平気だろう」――その言葉だけをこれまでずっと受け取り続けてきた。
それが当たり前だといつしか思い込んでいた。
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
気づけば喉の奥が締めつけられていて、まばたきを二度、三度と繰り返してからでないと、次の言葉が出てこなかった。
「……大丈夫です」
答えようとした声がわずかに震える。
アレックスはそれ以上何も言わなかった。
ただ彼女の様子をしばらくの間、見つめていただけ。
その視線には追及するような色はなく、ただ事実として彼女の状態を受け止めているだけの穏やかさがあった。
「明日は遅めに来ればいい」
彼はそう付け加えると踵を返し、部屋を出て行った。
扉が閉まる音が静かな執務室に響く。
一人残されたエリザはしばらくの間、動くことができなかった。
涙はこぼれなかったが、目の奥がじんと熱を持ったまま。
「一人で全て抱えなくていい」
その言葉を彼女は胸の中で繰り返し反芻する。
何度考えてもその響きは変わらない。
ただの労いの言葉ではない。
自分という存在をきちんと見た上で放たれた、確かな気遣いの言葉。
「自分を、気遣われた」
その事実が不思議なほど大きく、胸の中に広がっていく。
エリザは机に肘をつき、しばらくの間その温もりを噛み締めるように目を閉じていた。
☆
港湾倉庫を管理する下級役人が届いたばかりの荷物の記録を前に、困惑した表情を浮かべていた。
予定されていた到着からすでに半日以上が過ぎている。
「スケジュールの確認をいただけますでしょうか」
そう記された文書がアルテア家の執務室へと届けられたのは、その日の午後のこと。
ガルドが受け取り、内容を確認する。
眉根に静かに皺が寄った。
「若様」
ガルドは報告書を手にブレッドの元へと向かった。
彼は机の前に座り、届いたばかりの手紙――どうやらレベッカからのものらしい――に目を通しているところだった。
「港湾倉庫からの連絡です。荷物の到着に遅れが生じているとのことで」
ブレッドは手紙から視線を上げ、報告書にざっと目を通した。
それから笑いながら軽く手を振る。
「たまたまだろう。忙しいだけさ」
「ですが、こうした遅延がこの一週間で二度目でございます」
「君は心配性だな」
ブレッドはそう言いながら机の端に報告書を置いた。
「この程度は普通のことだろう」
ガルドは口を閉じ、机の端に置かれたままの報告書をそっと取り上げると、折れ曲がった端を指先で正すように整えた。
それが、彼にできるせめてもの抵抗だった。
深く一礼し、静かに部屋を後にする。
廊下に出たガルドはしばらくの間その場に立ち止まっていた。
眼鏡を外し、指先で目頭を押さえる。
「普通のこと、か……」
小さく呟いたその言葉には、これまでにはなかった確かな懸念の色が滲んでいた。
エリザがいた頃には決して起こらなかった類の遅延。
だがそれを口にしたところで今のブレッドには届かないだろう。
ガルドは眼鏡をかけ直し、次の仕事へと向かうため廊下を歩き出した。
☆
その頃、公爵家の領地ではエリザが窓辺に立ち、暗い庭園を見下ろしていた。
手の中の懐中時計を握りしめながら、彼女は先ほどの言葉をもう一度繰り返す。
「一人で、抱えなくていい……」
その言葉の意味を彼女はまだ完全には信じきれずにいた。
それでもその言葉が残した温もりだけは確実に胸の奥に灯り続けていた。




