第11話「好み」
公爵家に来てから、二週間ほどが経とうとしていた。
朝の光が差し込む執務室で、エリザは最初の頃よりも少しだけ肩の力を抜いて過ごせるようになっていた。
とはいえ、それは決して仕事の量が減ったからではない。
交易路再構築の計画は日を追うごとに具体性を増し、彼女が確認すべき書類の数もまた着実に積み上がっている。
その日の午前中、エリザは領地の帳簿を数冊並べ、季節ごとの収支の変動を洗い出す作業に没頭していた。
ペン先が紙の上を滑る音だけが、静かな部屋に規則正しく響いている。
一段落したところで、彼女は次の資料に手を伸ばそうとする。
そのとき、扉が控えめに叩かれ、返事をする間もなくゆっくりと開いた。
「失礼する」
入ってきたのはアレックスだった。
いつもの黒い手袋を彼は静かに外し、机の端に置く。
その動作には迷いのない、慣れた所作があった。
エリザは手を止め、椅子から立ち上がりかけた。
だが、アレックスは軽く手を上げてそれを制すると、そのまま持っていた小さなトレイを机の空いた場所に置く。
湯気の立つ茶杯が、二つ。
香りがふわりとエリザの鼻先まで届いた瞬間、彼女は微かに目を見張った。
それは実家で好んで飲んでいた、ごくありふれたハーブティーの香りだった。
子供の頃から慣れ親しんだ、優しい草の匂い。
アルテア家ではこうした好みを気にかけてもらうことなど、ほとんどなかった。
「好みを聞いておいた」
アレックスは淡々とそう言うとトレイから杯をひとつ取り、彼女の方へと軽く押しやる。
それから向かいの席に迷いなく腰を下ろした。
「無理にとは言わないが」
エリザは目の前に置かれた茶杯を、しばらくの間じっと見つめている。
誰に、どうやって好みを尋ねたのだろう。侍女だろうか。
それとも実家からの推薦状に何か記されていたのだろうか。
理由を考えかけて、けれどそれ以上にこの些細な気遣いが、思いがけないほど胸に染みてくるのをエリザは感じていた。
「……いただきます」
彼女は小さく頭を下げ、両手で杯を包むように持ち上げた。
湯気が頬をほんのりと温める。
一口含むと、懐かしい味が静かに舌の上に広がった。
アレックスはそれを確認するように、わずかに目を細める。
「少し休め」
低く、しかし確かな声で彼はそう続けた。
「連続して数字を見ていると、判断が鈍る」
エリザは「大丈夫です」と言いかけて、今回はその言葉を飲み込んだ。
代わりに、素直に杯を手に取る。
言い返さなかった自分に、彼女自身が一番驚いていた。
短い沈黙が部屋に流れる。
窓の外からは、庭師が木々の手入れをする鋏の音が微かに聞こえてくる。
「今朝、鉱山の方から連絡があった」
アレックスがふと世間話のように切り出した。
「先月よりも坑道の一つで、産出量が上向いているらしい。天候のおかげか、それとも何かが変わったのか」
「新しい採掘班が入ったと報告にありました。経験のある者たちを集めたと」
「なるほど」
アレックスは軽く頷いた。
仕事の話といえばそうだが、その口調にはこれまでの会議の場での緊張感はなかった。
ただの雑談に近い柔らかな空気が、二人の間に流れている。
「この領地の気候は、思ったより変わりやすいのですね」
エリザがふと窓の外に目をやりながら口にすると、アレックスは小さく頷いた。
「朝晩は冷えるが、日中は思いのほか暖かい。北部特有のものだ。……慣れないうちは体調を崩しやすい」
「気をつけます」
「無理をしなければな」
そう言ってアレックスは杯に口をつけた。
エリザは最初こそ堅く答えていたが、こうしたやり取りを重ねるうちに徐々に言葉が滑らかになっていくのを自分でも感じている。
仕事の話でも世間話でもない、ただの会話。
それは彼女にとって、ずいぶんと久しく経験していない種類の時間だった。
「君が無理をしているのは、わかる」
不意に、アレックスがそう告げた。
その一言が茶の香りと一緒に、胸へと届く。
エリザは杯を持つ手をわずかに止めた。
何を根拠に彼がそう言うのか、すぐには分からなかった。
だが、否定する言葉もすぐには出てこない。
「……そう、見えますか」
「見える。だが、それを咎めるつもりはない」
アレックスはそう言うと杯を机に置いた。
「ただ、無理をしていい理由にはならない、と思っているだけだ」
エリザはその言葉をしばらくの間、胸の内で反芻していた。
これまで彼女の「無理」を誰かがこんなふうに、明確な言葉で指摘してくれたことはなかった。
むしろその無理を、当然のこととして受け入れられ続けてきた。
ふと、エリザは気づく。
この人は自分の「優秀さ」だけを見ているのではない。
好みの茶を覚え、休憩を促し、無理をしていないかを気にかけている。
それは成果を出す道具としてではなく、一人の人間として自分を見てくれているということだった。
「私を、見てくれている」
その感覚が胸の奥に初めて温かく広がっていくのを、エリザは感じていた。
アルテア家では「優秀だから平気だろう」としか言われなかった。
ここでは「無理をするな」と言われる。
その違いが予想以上に大きく、彼女の心に響いていた。
彼女は思わず懐に手を伸ばしかけた。
だが、指先が触れる前に、その必要はないことに気づく。
今この場に、確かめなければならない不安は何もなかった。
「この茶は実家でよく飲んでいたものです」
エリザは静かにそう告げた。
「幼い頃、体が弱かった時期があって。母がよく淹れてくれました」
自分でもなぜそんな個人的な話を口にしたのか、よくわからなかった。
だがこの静かな時間の中でそれを語ることは、不思議と自然なことのように思えた。
アレックスは黙って耳を傾けている。
「……そうか」
短い相槌だったが、そこには確かな関心が込められているようにエリザには感じられた。
しばらくの間、二人はそれぞれの杯を傾けながら静かな時間を共有する。
会話は多くなかったが、その沈黙もまた居心地の悪いものではなかった。
やがて杯が空になる頃、アレックスは立ち上がった。
「午後も、無理はするな」
それだけを言い残し、彼はトレイを手に部屋を出て行った。
扉が閉まる音が静かに響く。
一人残されたエリザは空になった茶杯を見つめながら、小さく息を吐いた。
警戒心はまだ完全には消えていない。
この居心地の良さがいつか失われてしまうのではないかという不安も、心のどこかに残っている。
それでも「ここにいていいのかもしれない」という思いが確実に、胸の内に芽生え始めていた。
彼女は空の杯をそっと脇に寄せ、再び資料へと向き合う。
だが先ほどまでとは心持ちが少し違っていた。
手元のペンを持つ指先にわずかな軽さが戻っているのを、エリザは感じていた。
☆
アルテア家ではその頃、家令のガルドが眉を寄せていた。
彼の手元には鉱山からの月次報告書があった。
毎月の産出量の記載に小さな数字の矛盾が生じている。
これまでであればエリザがすぐに「計算ミスか、あるいは不正の兆候か」と見抜き、迅速に問い合わせを行っていたはずの案件だった。
「前回と数字が合いませんが、いかがいたしましょう」
現場責任者からの問い合わせ状をガルドは丁寧に整理し、ブレッドの元へと運んだ。
ブレッドはその報告書を受け取り、目を通す。
数字のズレに彼の視線が一瞬だけ止まった。
「……おかしいな」
小さく呟いたその声には確かな違和感が滲んでいる。
ブレッドはしばらくその数字を見つめていた。
いつもよりわずかに長く。
「若様、こちらの数字について、念のため確認を――」
「……次の報告でまた見ればいい」
遠ざける決断ではなく、先送りにする決断。
それだけの違いが、この時のブレッドにはあった。
ガルドはそれ以上何も言わなかった。
ただ深く一礼し、静かに部屋を後にする。
廊下に出た彼は眼鏡の奥の目を静かに伏せた。
ブレッドのあの言い方の裏に、彼自身も薄々気づき始めている何かがあるのではないか――そんな予感がガルドの胸に静かに影を落としていた。
窓の外では日が高く昇り、アルテア家の庭に穏やかな光を注いでいる。
だが、その明るさとは裏腹に、屋敷の奥では小さな綻びが少しずつ確実に広がり始めていた。




