第12話「守られる感覚」
公爵家主催の夜会が開かれるという知らせが届いたのは、数日前のこと。
領地改革の進捗を近隣の有力者たちに示すための、比較的内輪の集まり。
エリザはその知らせを受けた際、自分がどのような立場で招かれるのか、しばらくの間考えを巡らせていた。
「協力者として、出席していただきたい」
アレックスからそう伝えられたとき、エリザは静かに頷く。
婚約者としてではなく、実務を共にする者として招かれる。
それはこれまで経験してきた社交の場とは、根本的に違う立ち位置。
夜会当日、エリザは与えられた控え室で支度を整えていた。
侍女が丁寧に髪を結い上げながら、少し弾んだ声で話しかけてくる。
「今夜は近隣の有力な方々が多くいらっしゃるとか。クレール様のお噂も、きっと広まりましょう」
「噂、ですか」
「はい。改革の実務を支えていらっしゃると、すでに屋敷の中でも評判ですもの」
エリザはその言葉に曖昧な微笑みを返すだけ。
噂になることが良いことなのか、それとも新たな重荷になるのか、彼女自身まだ判断がつかずにいた。
淡い色のドレスに袖を通しながら、エリザはふとアルテア家での夜会の記憶を思い出していた。
あのときは「隣に立つ準備」として、鏡の前で何度も微笑みの練習をした。
今夜はそうした気負いがない代わりに、別の種類の緊張が胸の奥に静かに宿っている。
鏡の前で最後に襟元を整えていると、控え室の扉が控えめに叩かれた。
「クレール嬢、お迎えに上がりました」
侍従の声。
エリザは立ち上がり、鏡に映る自分の姿をもう一度だけ確かめる。
装飾は控えめだが、質の良い生地のドレスが彼女の白い肌を柔らかく引き立てていた。
控え室を出ると、そこにはアレックスが待っている。
いつもの簡素だが上質な装いに、今夜は珍しく襟元に控えめな装飾が加えられていた。
彼はエリザの姿を見ると一瞬だけ視線を留める。
「支度は済んだか」
「はい」
「行こう」
短いやり取りだけを交わし、二人は並んで会場へと向かう。
廊下を歩く間、アレックスは特に多くを語らなかったが、その沈黙は居心地の悪いものではない。
むしろ言葉を交わさずとも隣を歩くことが自然であるかのような、不思議な落ち着きがあった。
会場に足を踏み入れると、すでに多くの招待客が集まっていた。
天井からシャンデリアの光が、床に柔らかな金色の輪を落としている。
談笑する人々の声と弦楽の音色が、心地よく混ざり合っていた。
アレックスは迷いのない足取りで、エリザを自分の隣に立たせた。
強制でも、演出でもない。
まるで最初からそこにいるのが当たり前であるかのような自然な仕草。
周囲が軽くざわつくのをエリザは肌で感じた。
招待客の何人かが驚いたように視線を交わし合っている。
それも当然。
改革派の公爵家次期当主が自らの隣に、婚約もしていない令嬢をこうして堂々と立たせているのだから。
アレックスはそうした視線を気に留める様子もなく、淡々と紹介を進めていく。
「改革の実務で助けてもらっている。クレール嬢だ」
その紹介の言葉には余計な修飾がない。
事実だけを簡潔に述べる彼らしい言い方。
それでもエリザには、その簡潔さの中に確かな信頼が込められているように感じられた。
「クレール様、お噂はかねがね」
近づいてきた年配の伯爵が、興味深そうにそう声をかけてくる。
「改革の実務を担っていらっしゃるとか。若いご令嬢がそうした場で力を発揮されるとは、なかなか珍しいことです」
「まだまだ学ぶことばかりでございます」
エリザは丁寧に頭を下げる。
伯爵は満足げに頷き、それからアレックスの方へと視線を移し、何やら領地の話を始めた。
エリザはその会話に耳を傾けながら、必要なときには数字や具体的な進捗について簡潔に補足を加える。
アレックスはそれを咎めることも遮ることもなく、むしろ自然に彼女の言葉を会話の中に取り込んでいった。
そのやり取りの心地よさに、エリザはこれまでとは違う種類の安心感を覚えていた。
しばらく歓談が続いた後、エリザが人の輪から少し離れ、飲み物を受け取ろうとしたとき。
近くを通りかかった数人の令嬢たちの間から、抑えた話し声が聞こえてくる。
扇の陰から漏れる声は、エリザに向けられたものというより、互いに確かめ合うようなものだった。
「アルテア家の……」
「ああ、あの」
語尾は濁されたまま、それ以上は続かない。
それでも何を言おうとしていたのか、エリザにはすぐに分かった。
彼女は表情を変えることなくその場に立ち尽くす。
エリザが何か言葉を返すべきかどうか一瞬迷ったそのとき、隣に静かな気配が寄り添った。
アレックスだった。
彼はいつの間にかエリザの一歩前に立っている。
「クレール嬢の働きがなければ、この改革は今の速さでは進んでいない」
彼は令嬢たちの方へ視線を向けることなく、周囲に聞こえる程度の声で静かにそう告げた。
それから話題をさりげなく別の方向へと移していく。
「そういえば先日の交易路の件だが……」
囁き声はそれきり聞こえなくなった。
エリザは視線だけで相手を黙らせたアレックスの佇まいを見つめていた。
庇われたという実感がじわりと胸に染みてくる。
ひと通りの挨拶と歓談が終わり、招待客たちの輪が少しずつ落ち着きを見せ始めた頃、アレックスはエリザを促し、会場の端にある大きな窓辺へと歩を進めた。
窓の外には月明かりに照らされた庭園が広がっている。
談笑の声が遠くに小さく聞こえるだけの、静かな場所。
「疲れたか」
尋ねられて初めて、エリザは自分の肩に力が入り続けていたことに気づいた。
いつもの言葉が喉まで出かかったが、今は無理に取り繕う理由も見当たらない。
アレックスはそれ以上追及することなく、ただ彼女だけに聞こえる声でこう告げた。
「君はここにいていい」
その言葉は慰めでも励ましでもない。
ただ事実を確認するように静かに放たれた言葉。
エリザは一瞬呼吸を止めた。
アルテア家では「後で説明する」「仕方ないだろう」といつも遠ざけられてばかりだった。
婚約者でありながら隣に立つ資格を幾度となく奪われてきた。
ここでは最初から隣に立たせてもらえる。守ってもらえる。
隣に立つということが、これほど単純なことだったのかと、エリザは今さらのように思う。
誰かに許可されるでもなく、ただそこにいることを、拒まれない。
それだけのことに、目の奥が熱くなった。
同時に戸惑いもまた湧き上がってきた。
こんな感覚を自分は受け取っていいのだろうか――と。
「私は……」
エリザが何か言おうとして言葉に詰まったとき、アレックスはそれ以上何も求めない。
ただ彼女が言葉を続けられるよう静かに待っていた。
「ありがとうございます」
結局エリザはそれだけを口にする。
アレックスは小さく頷いた。
しばらくの間、二人は並んで窓の外の庭園を眺めている。
月の光が木々の輪郭を淡く縁取っていた。
会話はなかったが、その沈黙もまた心地よいもの。
夜会が終わりに近づく頃、アレックスはエリザを無理に引き止めることなく控え室まで送り届けた。
「今夜はよくやってくれた」
「こちらこそ、ありがとうございました」
短いやり取りを交わし、アレックスは部屋を出て行った。
一人残されたエリザは椅子に腰を下ろし、しばらくの間動かずにいる。
馬車で領地の屋敷に戻る道中、彼女は懐から銀の懐中時計を取り出し、右手で握りしめた。
今夜の感触を反芻する。
「守られる」――その温もりがまだ胸に残っている。
警戒心は完全には消えていない。
それでも「ここにいていいのかもしれない」という思いが確実に彼女の中で強くなっていた。
☆
アルテア家では小さなトラブルが着実に蓄積していた。
エリザが管理していた招待状の返信期限や贈答品の手配が、いくつも漏れ始めている。
他の貴族家から「ご返信をいただいておりませんが」という遠回しな確認の手紙が次々と届いていた。
「アルテア家、最近ちょっと対応が雑になっていないか」
そうした小さな噂の芽が社交界の片隅で静かに広がり始めていた。
使用人たちの間でも戸惑いの声が漏れている。
「以前はエリザ様がすぐに指示を出してくださったのに」
ガルドは一人で対応しきれない案件を前に、机に積み上がっていく報告書を静かに見つめていた。
彼が真剣に進言してもブレッドは苛立ちを隠しきれない様子で声を荒げることが増えている。
「いちいち報告するな」
表向きは強気な言葉を返しながらも、一人になった瞬間ブレッドは報告書を見つめたまま黙り込むことが多くなっていた。
机を指で叩くその落ち着きのない仕草が、彼の内心の余裕のなさを物語っている。
☆
公爵家の窓辺で、エリザは夜景を見つめながら小さく息を吐いた。
「私はここにいていい……」
その言葉を自分に言い聞かせるように、彼女は繰り返していた。
遠く離れたアルテア家で綻びが確実に次の段階へと進みつつあることを、彼女はまだ知る由もない。




