第13話「本格的な綻び」
アルテア家の朝は、いつになく重い空気で始まる。
その手紙は、ガルドが眠りに落ちる直前に届いた。
読み終えるまで、彼は寝台に入ることすら忘れていた。
気づけば窓の外はすでに白み始めており、着替えもそのままに彼は執務室へと向かっていた。
執務室へと向かう廊下で、彼はしばらく足を止め、書状をもう一度広げた。
文面は簡潔でありながら、これまでとは明らかに違う重みを持っている。
――貴家との取引継続について、再考せざるを得ない状況にございます。
主要な貿易ルートの一つを担っていた商人からの、正式な通告。
長年この家と取引を続けてきた相手が、これほど明確な言葉で契約の見直しを申し出てくる。
それがどれほど異例のことか、ガルドには痛いほど分かっていた。
彼は深く息を吸い込み、それからブレッドの部屋へと足を向ける。
朝の光が差し込む執務室で、ブレッドは届いたばかりの書類にまだ気づいていない様子。
彼は机に向かい、レベッカから贈られたという新しい万年筆を興味深そうに眺めている。
「若様」
ガルドが声をかけると、ブレッドは顔を上げ、いつもの軽い調子で応じた。
「ああ、ガルド。何か用か」
「昨夜、主要な貿易ルートの一部が完全に途絶したとの連絡が入りました」
ガルドは書状を差し出しながら、静かにそう告げる。
ブレッドは怪訝そうな表情を浮かべながら、それを受け取った。
「途絶……?」
「相手方の商人が、これまでの担当者がいなくなった以上信用を置けないとして、契約を一時停止したとのことです」
ブレッドの表情がわずかに強張る。
彼は書状に視線を落とし、そこに記された内容を改めて確認するように読み進めた。
数字は正直。損失の見込みがすでに冷たく、明確に記されている。
「エリザ様がいらっしゃった頃は」
ガルドは静かに、しかし重い声で続けた。
「こうした綻びは、すぐに塞がれておりました」
その名前を耳にした瞬間、ブレッドの手がわずかに止まる。
彼はしばらくの間、書状の文面を見つめたまま何も言わない。
窓の外から小鳥の囀りが、場違いなほど朗らかに聞こえてくる。
やがて彼は書状を受け取ったまま机の端に軽く目を通し、すぐに顔を上げた。
数字の深刻さに一瞬眉を寄せたものの、その表情はすぐに元の軽さを取り戻していく。
「ルートの一つが止まったくらいで、そこまで騒ぐことはないだろう」
彼は窓の外を見ながら、どこか他人事のように続けた。
「一時的なことだ。相手もすぐに気が変わるさ」
「若様、このままだと他の商人にも影響が出かねません」
ガルドがなおも進言を試みると、ブレッドは手を振ってそれを遮る。
「大丈夫だと言っているだろう」
その声にはこれまでにはなかった微かな苛立ちが滲む。
彼はすでに頭の中で、午後から訪れるレベッカのことを考え始めているようだった。
机の上に置いたままの万年筆を指先で軽く弄びながら、彼は明らかに今この瞬間の話題から意識を逸らそうとしている。
ガルドはその様子をじっと見つめていた。
都合の悪い話題を前にするとこうして手元の何かに意識を逃がすのは、若様の昔からの癖。
だが、今目の前にある問題はこれまでのように時間が解決してくれる類のものではないと、ガルドは確信していた。
それでも彼は一度だけ、もう一歩踏み込むことにする。
「エリザ様に一度、ご相談を――」
ガルドの提案に、ブレッドは即答しなかった。
少しの間があってから、ようやく口を開く。
「……必要ない」
迷いのなさそうな即答よりも、その一拍の沈黙の方が、彼の中の不安をよほど雄弁に語っていた。
「そろそろだろう。そろそろ戻りたいと言ってくるさ」
ブレッドはそう言い切ると、机の上の書状を無造作に端へと押しやった。
「どうせ帰ってくる。待っていればいい」
彼は本気でエリザの決断を「一時の感情」だと今も信じ込んでいるようだった。
その言葉には未練というよりも、慢心と否認が色濃く滲む。
「細かいことは後でいい」
ブレッドはそう言って話を切り上げると、椅子から立ち上がった。
ガルドはそれ以上言うことができない。
喉元まで出かかった言葉を呑み込む。
「今日はレベッカの様子を見に行く。何かあれば後で聞く」
ブレッドはそう言い残し、身支度を整えるために部屋を出て行った。
彼の足取りはいつもと変わらず軽やか。
一人残されたガルドは机の上に押しやられた書状を拾い上げた。
指先で紙の端を撫で、皺になった部分を丁寧に伸ばす。
眼鏡を外し、指先で額を押さえる。
その表情には明らかな深刻さが浮かんでいた。
「エリザ様がいらっしゃらなければ……」
その呟きは誰にも届かない。
彼はしばらくの間その場に立ち尽くしていたが、やがて書状を抱え直し、次の対応を考え始めた。
商人への返信、代替ルートの検討、資金繰りの見直し――どれもこれまでならエリザが即座に手をつけていた案件。
だが今この屋敷にそれを引き受けられる者は誰もいない。
ガルドは執務室の隅にある小さな棚から古い帳簿を数冊取り出し、机に広げる。
表紙にうっすらと積もった埃を袖口で軽く払う。
慣れない手つきで数字を追い始める。
彼は決して無能な男ではなかったが、こうした細部にまで及ぶ判断はこれまでずっとエリザの領分だった。
頁をめくるたびに、かつてこの同じ机で彼女が淡々とペンを走らせていた姿が自然と思い出される。
しばらくの間彼はその帳簿と格闘していたが、やがて深いため息をついてペンを置いた。
「私では、力不足だ」
小さく呟いたその言葉には、自らの限界を認める静かな諦念が滲む。
それでも彼は眼鏡をかけ直し、もう一度帳簿に向き直った。
せめてできる範囲のことだけでもやらねばならない。
☆
ブレッドは身支度を整えながら、先ほどのやり取りを頭の中で反芻していた。
ガルドの心配げな表情が脳裏に微かに引っかかっている。
「大袈裟なんだよ、あいつは」
彼は鏡の前でそう独り言ちた。
だがその声には自分自身に言い聞かせるような、わずかな不安の色が滲む。
彼はそれを振り払うようにコートを羽織り、部屋を出て行った。
馬車に乗り込みレベッカの元へと向かう道中、ブレッドは窓の外の景色を眺めながらしばらくの間考え込んでいる。
朝の光を受けた並木の緑が車窓の向こうを次々と過ぎていく。
だが今日はその景色がなぜかいつもより色褪せているように見えた。
貿易ルートの途絶。商人からの通告。数字に表れた確かな損失。
それらはこれまで彼が経験したことのない類の具体的な危機。
だがその危機の輪郭を正確に測る術を、彼は持ち合わせていない。
「たまたまだ」
彼はもう一度自分に言い聞かせるように呟く。
「すぐに何とかなる」
――そう考えることで彼は胸の奥に生まれかけた軽い不安をなんとか押し殺そうとしていた。
馬車がローレ家の屋敷に近づく頃には、彼の表情はいつもの穏やかなものに戻っている。
レベッカに会えばきっとこの不安も忘れられるはず。
そう思いながら彼は馬車の扉に手をかけた。
☆
アルテア家の執務室ではガルドが山積みになった報告書を前に一人、座り続けている。
窓の外では日が高く昇り、庭に穏やかな光を注いでいる。
だがその明るさとは裏腹に、屋敷の奥では確かな綻びが着実に広がり始めていた。
ガルドは机の上の帳簿をもう一度手に取る。
エリザが去ってからまだそれほど長い時間が経ったわけではない。
それなのにこの屋敷は彼女という一本の柱を失っただけで、これほどまでにその足元を揺らがせているのだった。
名前を口にしかけて、ガルドはそれをやめた。
呼んだところで、誰も応えないことは、とうに分かっている。




