第14話「広まる噂」
エリザが公爵家に加わってから改革が本格的に動き始めてしばらく経つ。
彼女が提案した交易路の修正案と帳簿整理は、少しずつ、しかし確実に数字として成果を出し始めていた。
朝の執務室でエリザは最新の報告書に目を通している。
以前は遅延が続いていた物資の到着が予定通りに進むようになり、損失として計上されていた額が着実に減少していることが資料の上に明確な数字として表れていた。
「順調ですね」
隣で報告書を確認していた管理官が、感心したように呟く。
「この調子なら来月には、当初の予定よりも早く計画の第二段階に進めそうです」
エリザはその言葉に静かに頷いた。
数字が正しく積み上がっていく感覚は彼女にとって何よりも確かな手応え。
昼過ぎ、アレックスが執務室に顔を出し、まとめられた報告書に目を通した。
彼はしばらくの間頁をめくりながら無言のまま数字を追っていたが、やがて顔を上げ、短く告げる。
「良い仕事だ」
その一言にエリザは礼を返す。
「ありがとう、ございます」
だがその言葉を口にしながらも、彼女の内心にはまだ拭いきれない警戒が残っていた。
――また、結果だけで評価されているだけかもしれない。
その考えがふと胸をよぎる。
数字が良ければ評価される。
それ自体は公平なことのはずだった。
だがアルテア家で染み付いた習慣は彼女にそう単純には受け取らせてくれない。
結果を出したときだけ価値がある――その考えにまだどこかで縛られている自分がいた。
そんな彼女の内心をよそに、成果は少しずつ社交界へと漏れ伝わり始めていた。
領地の商人や実務担当者たちを通じて「公爵家の改革が順調らしい」という話がまず商人の間で囁かれるようになった。
それがやがて社交の場にも波及していく。
「実務を担っているのは元アルテア家の婚約者だった方だとか」
そうした噂が夜会や茶会の席でぽつぽつと聞かれるようになっていった。
最初は小さな話に過ぎなかったが、数字の改善が明らかになるにつれ関心を持つ者が少しずつ増えていく。
ある午後、エリザはアレックスに同行し、短時間だけ近隣の貴族が開いた茶会に顔を出すことになった。
以前の夜会とは違い、より小規模で内輪の集まりに近いもの。
会場となった庭園には白いテーブルクロスがかけられたテーブルがいくつか並び、招待客たちが思い思いに歓談を交わしている。
エリザはアレックスの傍らで丁寧に挨拶を交わしながらその場の空気を静かに観察していた。
「クレール様、公爵家でご活躍と伺っておりますわ」
近づいてきたのは以前、夜会で遠巻きに囁いていた令嬢の一人。
露骨な嘲りはその表情からは消えている。
代わりにどこか探るような、それでいて興味を隠しきれない笑顔を浮かべていた。
エリザはいつもの微笑みで軽く会釈を返す。
「まだまだ学ぶことばかりですわ」
「ご謙遜を。数字がすべて物語っておりますでしょう?」
令嬢はそう言うと扇を軽く揺らしながら他の話題へと移っていった。
エリザはその後ろ姿を見送りながら胸の奥に小さな安堵が広がっていくのを感じる。
「結果を出したら、人として見てもらえる」その実感が初めて確かに芽生えた瞬間だった。
アルテア家にいた頃はどれほど支えても「優秀だから当然」で終わっていた。
誰もその努力の過程を正当に評価することはなかった。
だがここでは成果が噂という形で少しずつ広まり始めている。
それは決して大きな喝采ではなかったが、確かに彼女の存在を人々の意識に静かに刻み始めていた。
茶会の中盤、エリザは庭園の一角で少し休憩を取ることにした。
日差しを避けるための木陰に座り、遠くで談笑する人々の声をぼんやりと聞いていた。
そこへ初老の商人が遠慮がちに近づいてくる。
以前、エリザが直接輸送ルートの件で連絡を取ったことのある人物だった。
「クレール様、先日は迅速なご対応感謝しております」
「こちらこそご協力に感謝しております」
商人は深々と頭を下げたあと、少し声を落として続けた。
「実を申しますと、以前のアルテア家との取引で随分と苦労した時期がございまして。ですがクレール様がいらっしゃった頃はいつも的確なご返答をいただけて、こちらとしても大変助かっておりました」
その言葉にエリザは静かに頷く。
「今、アルテア家の様子は……」
思わずそう尋ねかけて、エリザは口をつぐんだ。
聞くべきではないという思いと、知っておきたいという思いが胸の中で静かにせめぎ合っている。
商人はその問いに少し困ったような表情を浮かべた。
「詳しいことは私の口からは……。ただ、以前のような迅速なご対応は少し難しくなっているようだと、風の噂には聞いております」
それだけを告げると商人は一礼してその場を離れていった。
エリザはしばらくの間その後ろ姿を見つめていたが、やがて静かに視線を庭園の景色へと戻す。
茶会から戻った夕刻、エリザは自分の部屋で銀の懐中時計を取り出した。
蓋を開き、右手の指先でその文字盤を撫でながら今日の出来事を反芻する。
喜びは激しいものではなかった。
ただ長く冷えていた胸の奥が少しだけ温かくなったような、そんな感覚。
「私は結果を出した。そして見てくれている人がいる」
声には出さなかったが、その一文だけで、今日一日の疲れが少し軽くなった気がした。
窓の外では夕日が領地の景色を橙色に染め始めている。
☆
アルテア家には、エリザの噂はまだ本格的には届いていなかった。
屋敷の中は相変わらず日々の小さなトラブルへの対処に追われ、遠く公爵家の動向にまで目を向ける余裕はない。
ブレッドはその日もいつもと変わらぬ調子で家の危機を楽観視したままだった。
彼は朝の報告を軽く聞き流し、レベッカとの午後の予定について上機嫌に考えていた。
だが社交界の片隅では確かに変化の兆しが芽生え始めていた。
「あの方、公爵家で活躍しているらしいわ」
そんな囁きが少しずつ、少しずつ広がりを見せている。
それはまだアルテア家の耳に届くほどの大きさではなかったが、確かに静かに社交界の空気を変え始めていた。
☆
公爵家の窓辺でエリザは小さく息を吐いた。
今日という日を、エリザは特に誰かに報告するでもなく、ただ自分の中だけでそっと仕舞っておくことにした。
それで十分だった。
遠く離れたアルテア家の綻びがまだ知らぬ間に着実に深まっていることを、彼女はまだ知らなかった。




