第15話「断片的な知らせ」
公爵家の執務室に、朝の光が柔らかく差し込んでいる。
エリザは、その日の作業を始める前に、いつものように届いた書簡の束に目を通していた。
取引先からの報告、領地内の各拠点からの連絡――日々、机の上に積み上がるそれらを、一通ずつ丁寧に確認していく。
ふと、その中に見慣れた筆跡の封書が二通、紛れ込んでいることに気づいた。
一つは実家の兄・レオンからのもの。
もう一つは――エリザは、その差出人の名を見た瞬間、手を止めた。
アルテア家、家令ガルド。
彼女はしばらくの間、その封書を見つめたまま動かない。
あの日から、これまでアルテア家からの連絡は一度もなかった。
「エリザ様、お茶をお持ちしました」
侍女が控えめにそう告げながら、湯気の立つ茶杯を机に置いた。
エリザは礼を言いながらも、視線はまだ二通の封書に注がれたまま。
「何か、気になることでも?」
侍女がそう尋ねると、エリザは静かに首を振る。
「いいえ、大丈夫よ」
侍女が下がった後、エリザはしばらくの間、封を開けることをためらう。
何が書かれているのか、開ける前からなんとなく想像がついてしまう。
それでも、目を逸らし続けるわけにもいかない。
手紙の封を、エリザはそのまま切った。
いつものように何かに触れて心を落ち着ける、その手順を踏む間もないほど、差出人の名前が彼女の目を離さなかった。
まずレオンからの手紙を、彼女は開く。
兄らしい簡潔で、しかし温かみのある筆致。
「アルテア家の状況が思わしくないという話を耳にした。詳しくはわからないが、商人が離れ始めているらしい。お前に伝えようか迷ったが、隠すのも違うと思った。無理に気にする必要はない。ただ、知っておいてほしかった」
エリザはその文面を一度、静かに読み返した。
兄があえてこの話を伝えてきたことには、彼なりの葛藤があったのだろう。
かつて「エリザなら大丈夫だ」と彼女に多くを委ねてきた兄が、今はこうして気遣いながら、情報の一つ一つを慎重に選んでいる。
その変化に、エリザは微かな感慨を覚えた。
続けて、彼女はガルドからの手紙に手を伸ばす。
その筆致はいつもの彼のように、極めて丁寧で簡潔だった。
感情を抑えた文字の並びの中に、それでも確かな重みが滲む。
「貿易ルートの一部が途絶し、鉱山にも不正の噂が出ております。若様はまだ楽観視されておりますが、このままでは家の基盤が揺らぎます」
その一文をエリザは静かに読み返す。
断片的な情報ではあったが、危機の輪郭は彼女には手に取るように理解できた。
輸送ルートの矛盾は、去る前から彼女自身が気づいていたもの。
あの綻びが放置され続ければ、いずれ深刻な事態を招くであろうことも、すでに予見していた。
エリザは二通の手紙を机の上に並べて置く。
窓から差し込む光が、白い便箋の上に静かな影を落としていた。
しばらくの間、彼女はその文面を何度も読み返している。
数字の裏側にある深刻さが、これまでの経験から彼女には手に取るように理解できた。
執務室の扉が控えめに叩かれる。
「クレール嬢、少しいいか」
アレックスだった。
彼は部屋に入るなり、机の上に広げられた二通の手紙に視線を留める。
エリザの表情に何か違うものを感じ取ったのか、彼はしばらくの間黙って様子を窺っていた。
「何かあったか」
「……実家と、以前の婚約先から手紙が届きました」
エリザは静かにそう告げた。
アレックスはそれ以上、詳しくは尋ねない。
ただ机の傍まで歩み寄り、彼女の様子を静かに見守っていた。
「読んでいいか」
「……はい」
エリザが頷くと、アレックスは手紙を手に取り目を通す。
彼の表情は変わらない。
ただ読み終えた後、彼は静かに手紙を机に戻した。
「戻るつもりか」
その問いは責めるでも心配するでもなく、ただ事実を確かめるような静かな響きを持つ。
エリザはしばらくの間、答えなかった。
窓の外に目をやり、遠くの景色を見つめながら、自分の中にある感情を静かに整理しようとしている。
「……わかりません」
正直な言葉が口をついて出た。
「懐かしさはあります。ガルドさんの筆跡を見るだけで……あの屋敷で過ごした日々を思い出します」
アレックスは何も言えず、彼女の言葉を静かに聞いていた。
「でも」
エリザは続ける。
「戻ればまた頼られるだけだと思います。私を必要とするのは都合がいいときだけ――そう思うと、戻る気にはなれません」
アレックスはしばらくの間、彼女の顔を見つめていた。
それから静かに頷く。
「戻るかどうかは、君が決めることだ」
それだけ言うと、アレックスは彼女の返事を急かすように待つことはしなかった。
ただ、机の上の手紙を彼女の方へそっと押し戻す――読み返すもよし、しまうもよし、というように。
彼はそのまま、その場を離れていった。
一人になった執務室で、エリザはもう一度二通の手紙を手に取る。
捨てることも、すぐに返事を書くこともせず、ただしばらくの間その文面を静かに見つめていた。
昼過ぎ、エリザは少し気分を変えようと、庭園を歩くことにする。
整えられた花壇の脇をゆっくりと歩きながら、彼女はこれまでの日々を静かに思い返していた。
深夜の執務室で一人、帳簿を整理していた夜。
夜会で隣の席を奪われた瞬間。
外交交渉の端の席から、ただ見守るしかなかった時間。
そして静かに婚約を返上した、あの夜。
それらすべてが今、遠い記憶のように感じられる一方で、まだ完全には消えきっていない痛みとして胸に残っていることも、エリザは自覚していた。
庭園の隅で彼女は足を止め、しばらくの間、遠くの空を見上げる。
雲がゆっくりと形を変えながら流れていく。
――知っていても、もう戻りません。
声には出さず、心の中だけで彼女はそう告げた。
この決断は感情的な拒絶ではない。
状況をすべて理解した上での冷静な選択。
執務室に戻ったエリザは、二通の手紙を丁寧に折り畳んだ。
捨てることはせず、机の引き出しの奥に静かにしまう。
彼女は懐から銀の懐中時計を取り出し、中を見た。
針の音が静かに時を刻んでいる。
アルテア家での日々は、もう自分が生きるべき場所ではなくなっている。
エリザはそのことを、悲しみとしてではなく、ただ一つの区切りとして静かに受け止めていた。
夕刻、エリザはレオンへの返事をしたためることにする。
長い手紙ではない。
ただ、「知らせてくれてありがとう。今のところ、私の考えは変わりません。どうかお体を大切に」とだけ、簡潔に書き記した。
ガルドへの返事はしばらく迷った末、書かないことにした。
今はまだ何を伝えればいいのか、彼女自身にもはっきりとした言葉が見つからない。
窓の外は次第に夕闇に包まれ始めていた。
エリザは窓辺に立って遠くの空を見つめる。
遠くアルテア家では危機がさらに進行していることを、彼女はもう知っている。
それでも戻るつもりはない。
その決意だけが静かに、確かに彼女の中に根を下ろしていった。




