↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/23

第15話「断片的な知らせ」

公爵家の執務室に、朝の光が柔らかく差し込んでいる。

エリザは、その日の作業を始める前に、いつものように届いた書簡の束に目を通していた。

取引先からの報告、領地内の各拠点からの連絡――日々、机の上に積み上がるそれらを、一通ずつ丁寧に確認していく。


ふと、その中に見慣れた筆跡の封書が二通、紛れ込んでいることに気づいた。

一つは実家の兄・レオンからのもの。

もう一つは――エリザは、その差出人の名を見た瞬間、手を止めた。

アルテア家、家令ガルド。


彼女はしばらくの間、その封書を見つめたまま動かない。

あの日から、これまでアルテア家からの連絡は一度もなかった。


「エリザ様、お茶をお持ちしました」


侍女が控えめにそう告げながら、湯気の立つ茶杯を机に置いた。

エリザは礼を言いながらも、視線はまだ二通の封書に注がれたまま。


「何か、気になることでも?」


侍女がそう尋ねると、エリザは静かに首を振る。


「いいえ、大丈夫よ」


侍女が下がった後、エリザはしばらくの間、封を開けることをためらう。

何が書かれているのか、開ける前からなんとなく想像がついてしまう。

それでも、目を逸らし続けるわけにもいかない。


手紙の封を、エリザはそのまま切った。

いつものように何かに触れて心を落ち着ける、その手順を踏む間もないほど、差出人の名前が彼女の目を離さなかった。


まずレオンからの手紙を、彼女は開く。

兄らしい簡潔で、しかし温かみのある筆致。


「アルテア家の状況が思わしくないという話を耳にした。詳しくはわからないが、商人が離れ始めているらしい。お前に伝えようか迷ったが、隠すのも違うと思った。無理に気にする必要はない。ただ、知っておいてほしかった」


エリザはその文面を一度、静かに読み返した。

兄があえてこの話を伝えてきたことには、彼なりの葛藤があったのだろう。

かつて「エリザなら大丈夫だ」と彼女に多くを委ねてきた兄が、今はこうして気遣いながら、情報の一つ一つを慎重に選んでいる。


その変化に、エリザは微かな感慨を覚えた。

続けて、彼女はガルドからの手紙に手を伸ばす。

その筆致はいつもの彼のように、極めて丁寧で簡潔だった。

感情を抑えた文字の並びの中に、それでも確かな重みが滲む。


「貿易ルートの一部が途絶し、鉱山にも不正の噂が出ております。若様はまだ楽観視されておりますが、このままでは家の基盤が揺らぎます」


その一文をエリザは静かに読み返す。

断片的な情報ではあったが、危機の輪郭は彼女には手に取るように理解できた。

輸送ルートの矛盾は、去る前から彼女自身が気づいていたもの。

あの綻びが放置され続ければ、いずれ深刻な事態を招くであろうことも、すでに予見していた。


エリザは二通の手紙を机の上に並べて置く。

窓から差し込む光が、白い便箋の上に静かな影を落としていた。

しばらくの間、彼女はその文面を何度も読み返している。


数字の裏側にある深刻さが、これまでの経験から彼女には手に取るように理解できた。

執務室の扉が控えめに叩かれる。


「クレール嬢、少しいいか」


アレックスだった。

彼は部屋に入るなり、机の上に広げられた二通の手紙に視線を留める。

エリザの表情に何か違うものを感じ取ったのか、彼はしばらくの間黙って様子を窺っていた。


「何かあったか」

「……実家と、以前の婚約先から手紙が届きました」


エリザは静かにそう告げた。

アレックスはそれ以上、詳しくは尋ねない。

ただ机の傍まで歩み寄り、彼女の様子を静かに見守っていた。


「読んでいいか」

「……はい」


エリザが頷くと、アレックスは手紙を手に取り目を通す。

彼の表情は変わらない。

ただ読み終えた後、彼は静かに手紙を机に戻した。


「戻るつもりか」


その問いは責めるでも心配するでもなく、ただ事実を確かめるような静かな響きを持つ。

エリザはしばらくの間、答えなかった。

窓の外に目をやり、遠くの景色を見つめながら、自分の中にある感情を静かに整理しようとしている。


「……わかりません」


正直な言葉が口をついて出た。


「懐かしさはあります。ガルドさんの筆跡を見るだけで……あの屋敷で過ごした日々を思い出します」


アレックスは何も言えず、彼女の言葉を静かに聞いていた。


「でも」


エリザは続ける。


「戻ればまた頼られるだけだと思います。私を必要とするのは都合がいいときだけ――そう思うと、戻る気にはなれません」


アレックスはしばらくの間、彼女の顔を見つめていた。

それから静かに頷く。


「戻るかどうかは、君が決めることだ」


それだけ言うと、アレックスは彼女の返事を急かすように待つことはしなかった。

ただ、机の上の手紙を彼女の方へそっと押し戻す――読み返すもよし、しまうもよし、というように。

彼はそのまま、その場を離れていった。


一人になった執務室で、エリザはもう一度二通の手紙を手に取る。

捨てることも、すぐに返事を書くこともせず、ただしばらくの間その文面を静かに見つめていた。

昼過ぎ、エリザは少し気分を変えようと、庭園を歩くことにする。

整えられた花壇の脇をゆっくりと歩きながら、彼女はこれまでの日々を静かに思い返していた。


深夜の執務室で一人、帳簿を整理していた夜。

夜会で隣の席を奪われた瞬間。

外交交渉の端の席から、ただ見守るしかなかった時間。

そして静かに婚約を返上した、あの夜。


それらすべてが今、遠い記憶のように感じられる一方で、まだ完全には消えきっていない痛みとして胸に残っていることも、エリザは自覚していた。

庭園の隅で彼女は足を止め、しばらくの間、遠くの空を見上げる。

雲がゆっくりと形を変えながら流れていく。


――知っていても、もう戻りません。

声には出さず、心の中だけで彼女はそう告げた。

この決断は感情的な拒絶ではない。

状況をすべて理解した上での冷静な選択。


執務室に戻ったエリザは、二通の手紙を丁寧に折り畳んだ。

捨てることはせず、机の引き出しの奥に静かにしまう。

彼女は懐から銀の懐中時計を取り出し、中を見た。

針の音が静かに時を刻んでいる。


アルテア家での日々は、もう自分が生きるべき場所ではなくなっている。

エリザはそのことを、悲しみとしてではなく、ただ一つの区切りとして静かに受け止めていた。


夕刻、エリザはレオンへの返事をしたためることにする。

長い手紙ではない。

ただ、「知らせてくれてありがとう。今のところ、私の考えは変わりません。どうかお体を大切に」とだけ、簡潔に書き記した。


ガルドへの返事はしばらく迷った末、書かないことにした。

今はまだ何を伝えればいいのか、彼女自身にもはっきりとした言葉が見つからない。

窓の外は次第に夕闇に包まれ始めていた。


エリザは窓辺に立って遠くの空を見つめる。

遠くアルテア家では危機がさらに進行していることを、彼女はもう知っている。

それでも戻るつもりはない。

その決意だけが静かに、確かに彼女の中に根を下ろしていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。