第16話「鉱山の不正」
何日も同じ時刻に目が覚めるようになっていた。
眠っているのか起きているのか、その境目さえガルド自身よく分からなくなっている。
手の中の書類の束は、開く前からすでに嫌な重みを持っていた。
鉱山の定期監査を担当していた役人からの正式な報告書だった。
ガルドは眼鏡をかけ直し、その一枚一枚に丁寧に目を通していく。
数字が並ぶ頁をめくるたびに、彼の表情が少しずつ、確かに強張っていく。
窓の外が次第に白み始める。
庭木の輪郭が闇の中から、少しずつ浮かび上がってきた。
ガルドは、その変化にほとんど気づかぬまま書類の内容を何度も確かめ直している。
――これは、単なる誤差ではない。
彼は静かにそう確信するに至った。
帳簿上の産出量と実際に取引された鉱石の量との間に、長期にわたる明確な乖離。
それは天候や偶発的な事情で説明のつく範囲を、明らかに超えている。
侍女が朝の茶を運んできたとき、ガルドはそれにほとんど手をつけないまま報告書を抱えて立ち上がった。
「若様は、もうお目覚めでしょうか」
「まだお休みのようでございますが……」
侍女の答えにガルドは一瞬だけ迷いを見せたが、すぐに決意したように頷く。
「起こしてください。急を要する話です」
侍女は少し驚いた様子を見せたが、すぐに二階へと向かった。
ガルドはそのあとを追うように、静かに階段を上っていく。
廊下に敷かれた絨毯が、彼の足音をいつもより重く吸い込んでいく。
しばらくして、寝間着姿のまま髪を乱したブレッドが寝室から顔を出した。
「こんな朝早くから、何事だ」
「若様。鉱山の監査結果が出ました。深刻な不正が発覚しております」
ガルドはそう告げながら報告書を差し出した。
ブレッドはまだ眠気の残る目をこすりながら、それを受け取る。
「不正……?」
「はい。帳簿上の数字と実際の産出量に、大きな乖離がございます。長年にわたり一部の役人が利益を私的に流用していた可能性が高いと」
ブレッドは報告書を手にしたまま、しばらくの間その場に立ち尽くしていた。
彼は着替えもそこそこに、応接室へと場所を移すようガルドに促す。
応接室に移ってからブレッドは、朝の光の中で改めて報告書に目を通し始めた。
頁をめくる手が次第に速くなっていく。
数字のひどさに彼の顔が、みるみるうちに強張っていくのがガルドの目にもはっきりとわかった。
「こんな……なぜ、今まで気づかなかった」
ブレッドの声にはこれまでにない焦りが帯びていた。
彼は報告書の末尾に記された資金繰りの見込みに目を留める。
取引先への支払いが滞り始め、追加の融資も望めない状況にあると、冷たい文字で記されている。
「取引先への支払いは……」
「来月の予定分から、すでに滞りが始まっております」
ガルドの答えにブレッドは机に両肘をつき、頭を抱えるようにして深く沈黙した。
その沈黙の中、控えめな足音とともに使用人が一通の手紙を運んできた。
「若様、ローレ家からのお手紙が」
ブレッドはその手紙を一瞬だけ見つめた。
いつもならすぐにでも封を切り、内容を確認していたはずだった。
だが今は頭の中が鉱山の報告書のことで埋め尽くされ、それどころではない。
「後で読む」
彼はそう言うと、使用人に手紙を返した。
使用人は少し戸惑った様子を見せながらも一礼して部屋を出て行く。
その様子をガルドは静かに見つめていた。
これまでレベッカからの連絡があればどんな用事も後回しにして真っ先に向かっていたブレッドが、今初めてそうしなかった。
それだけ事態が深刻であることを、彼自身が否応なしに理解し始めているのだろう。
「若様」
ガルドは静かに続けた。
「このままでは来月には主要な支払いが滞ります。抜本的な手が必要かと」
ブレッドは何も答えない。
ただ両手で頭を抱えたまま、しばらくの間身動きひとつしなかった。
窓の外では朝の光が次第にその強さを増していく。
庭ではいつもと変わらず庭師が生垣の手入れを始めている姿が見えた。
その平穏な光景と、応接室の中に漂う重苦しい沈黙とのあいだに、あまりにも大きな隔たりがあるようにガルドには感じられる。
長い沈黙の末、ブレッドが低く呟いた。
「……なんでだよ。あいつがいた頃は、こんなこと一度もなかったのに」
その言葉は誰に聞かせるでもなく、ただ口をついて漏れ出たものだった。
ガルドはその一言をはっきりと聞き取った。
これまでブレッドは「どうせすぐ戻ってくる」「一時的なことだ」と繰り返し口にしてきた。
彼女の不在を深刻なものとして受け止めたことは一度もない。
だが今初めて彼は、明確に彼女の不在を損失として認めていた。
「若様……」
ガルドがそう声をかけると、ブレッドは力なく首を横に振った。
それ以上何も言葉を続けることができない。
「少し、一人にしてくれ」
ブレッドはそう言って応接室の椅子に深く体を沈めた。
ガルドはしばらくの間その様子を見守っていたが、やがて静かに一礼し部屋を出る。
廊下に出たガルドは扉を閉めてから一度、深く息を吐いた。
眼鏡を外し、目頭を指先で軽く押さえる。
その表情には深い無力感が浮かんでいた。
「エリザ様に、もっと早くお伝えすべきだったでしょうか」
呟きは誰にも届かない。
彼はしばらくの間廊下に立ち尽くしていたが、やがて自分に与えられた仕事へと意識を向け直すことにした。
昼を過ぎた頃、ガルドは応接室に軽い食事を運ばせた。
だが扉の隙間から様子を窺うと、ブレッドはまだ先ほどと同じ姿勢のまま椅子に沈み込んでいる。
机の上にはローレ家からの手紙が封も切られないまま、置かれたままになっている。
夕刻近くになってブレッドは、ようやく自室に戻ることにしたようだった。
ガルドは彼が階段を上っていく後ろ姿を静かに見送る。
その夜、ガルドは自分の小さな執務机で一人、遅くまで書類と向き合っていた。
灯りは燭台一つだけ。
彼は鉱山の不正について今後どのように対応すべきか、頭の中で何度も算段を巡らせていたが、有効な手立てはほとんど見つからない。
「エリザ様がいらっしゃれば……」
その言葉がふと、彼の口からも漏れた。
ブレッドと同じ言葉を彼自身が呟いていることに、ガルドは少しばかり苦い自嘲を覚える。
一方、その夜のブレッドは自室の机に向かい、便箋を一枚取り出していた。
ペンを手に取ったものの、彼はしばらくの間何も書くことができずにいる。
「エリザに……」
そこまで書いて、ペン先が止まった。
続きの言葉が、どうしても出てこない。
詫びるべきなのか、頼るべきなのか、あるいはその両方なのか――彼はまだ自分の中でそれさえ整理できていなかった。
結局その夜、便箋は真っ白なまま机の上に残された。
ブレッドは何も書けなかった便箋を見つめながら、深く長いため息をついた。
アルテア家の基盤は確実に崩れ始めていた。
そしてその事実を屋敷の主たちも、ようやくはっきりと自覚し始めている。




