第17話「破産の影」
朝から、アルテア家の応接室には、いつもとは違う緊張した空気が漂っている。
外には見慣れない紋章を掲げた馬車が、一台、また一台と次々に到着している。
屋敷の玄関先では執事が忙しなく出入りを繰り返し、案内する声にもどこか硬さが滲む。
その日訪れたのは、いずれもこれまで長年、アルテア家と取引のあった商人たちだった。
ガルドは朝から、一人また一人と入れ替わりに訪れる彼らの応対に追われている。
最初の商人は、繊維商を営む初老の男だった。
応接室の椅子に浅く腰掛け、視線を落としたまま言葉を選ぶように切り出す。
「誠に残念ですが……これ以上のお付き合いは難しい状況でございます」
そう言い残すと、これまでの取引への感謝を丁寧に述べてから深々と頭を下げ、席を立った。
二人目は資料も見ずに用件だけを告げ、長居をせずに帰っていった。
三人目に至っては、取引の打ち切りを告げる手紙を寄越しただけで、屋敷に姿を見せることさえなかった。
礼儀正しさの度合いが目に見えて薄れていく。
それ自体が、アルテア家の信用の落ち方を物語っていた。
執務室では、ブレッドが報告書の山を前に机に突っ伏すようにして座っている。
彼の周りには資金繰りの見込みを記した書類がいくつも広げられている。
数字はどれも冷たく、絶望的な見通しを示していた。
鉱山の不正発覚からすでに数日が経っている。
その間、ブレッドはあらゆる手を打とうと試みてきた。
旧知の貴族に資金の相談を持ちかけたこともあった。
だが、いずれも色よい返事は得られない。
「なぜ、こんなことに……」
彼は頭を抱え、これまで避けてきた現実をついに直視せざるを得ない状況に追い込まれていた。
机の端には今朝届いたばかりのレベッカからの手紙が、まだ封も切られないまま置かれている。
「心配してる」
とだけ記されたその文面を、彼はまだ確認する気力すら持てずにいた。
ガルドが静かに応接室から戻ってきて、ブレッドの元へと向かう。
「若様。本日訪ねてこられた方々は――」
「わかっている、わかっているよ」
ブレッドは遮るようにそう言うと、乱暴に頭を掻く。
その仕草にはこれまでの彼らしい甘さはもはや見られない。
「このままでは来月には、主要な支払いが滞ります。抜本的な手が必要です」
ガルドは静かに、しかしはっきりとそう告げた。
ブレッドは何も答えず、ただ報告書の一枚を力なく握りしめる。
「有効な手立ては、もうほとんど残されておりません」
ガルドの言葉は彼自身にとっても、口にするのが辛いものだった。
だが事実をこれ以上曖昧にしておくわけにはいかない。
長い沈黙が応接室に落ちた。
窓の外からは庭を渡る風の音だけが微かに聞こえてくる。
ブレッドはしばらくの間動かなかった。
やがて彼は深く、長いため息をつき、机に広げられた書類をゆっくりと片付け始める。
「少し、考えさせてくれ」
彼はそう言うと応接室を出て、自室へと向かった。
ガルドはその後ろ姿を黙って見送った。
自室に戻ったブレッドは、しばらくの間窓辺に立ち尽くしていた。
庭の景色を眺めながら、彼はこれまでの日々を断片的に思い返している。
深夜まで一人で帳簿を整理していたエリザの姿。
夜会で静かに一歩下がっていった彼女の背中。
「大丈夫です」
と何度も繰り返していたあの声。
これまでそれらのすべてを彼は当然のこととして受け止めてきた。
彼女がいなくなって初めて、その「当然」がどれほど多くのものに支えられていたのかを思い知らされている。
夕刻、ブレッドは机の引き出しを開けた。
昨夜、一文字も書けなかった便箋が、まだ机の上に残っていた。
ブレッドはそれを一度丸めて捨て、新しい便箋を広げる。
今度は、言葉を選ぶことをやめた。
「戻ってきてほしい。君がいないと、何もできない」
飾る余裕も、取り繕う気力も、もう残っていなかった。
書けたのはそれだけの、短い一文だった。
書き終えた後、彼はその文面をしばらくの間じっと見つめていた。
これまでの慢心や言い訳を捨て、初めて素直な懇願の言葉を並べたもの。
誇りも体裁もそこにはない。
ただ失ったものの大きさを認めるだけの短い文章だった。
彼はその手紙を丁寧に折り畳み、封をする。
宛先には公爵家の領地の名を記す。
それを至急便として送るよう、使用人に言いつけた。
手紙を渡し終えた後、ブレッドは深く息を吐き、天井を見上げる。
「エリザなら、きっと分かってくれる……」
その期待はもはや以前のような慢心ではない。
依存と後悔の入り混じった、切実な祈りに近いものだった。
☆
一方、公爵家の領地。
エリザはその日の午後、執務室で報告書の整理をしている。
窓の外には穏やかな陽射しが降り注ぎ、領地の畑では農夫たちが作業に精を出している姿が見える。
改革が軌道に乗り始めたこの地には確かな落ち着きが広がっていた。
そこへ使用人が一通の手紙を運んできた。
「クレール様、お手紙が届いております」
差出人の名を見た瞬間、エリザは静かに息を止めた。
アルテア家からの直接の手紙はこれが初めて。
彼女はしばらくの間その封筒を机の上に置いたまま、じっと見つめている。
開けるべきかどうか迷いがなかったわけではない。
それでも目を逸らし続けることもできず、やがて彼女は右手で懐中時計に触れてから静かに封を切った。
短い文面だった。
だがそこに記された言葉はこれまでの数々の記憶を鮮やかに呼び起こすもの。
「戻ってきてほしい」
その言葉はかつての「君だけはわかってくれ」と同じ重みを持って彼女の胸に届いた。
何度も何度も彼女を縛り続けてきたあの言葉たちと。
エリザはしばらくの間その文面を静かに見つめ続けていた。
窓の外では風が木々の梢を静かに揺らしている。
手紙を引き出しにしまいながら、エリザは声に出さずにそう呟いた。
――もう、遅いのです。
怒りでも、勝ち誇った気持ちでもない。
ただ、扉が一つ静かに閉まったような、そのくらいの静けさだった。
返事を書くことはしない。
手紙は無視された。
ブレッドの元に返事が届くことはない。
夜になり、アルテア家ではブレッドが自室で返事の来ない日々を静かに数え始めていた。
彼の中に募る焦燥と後悔は日を追うごとに深まっていく――




